最新記事

映画

『英国王のスピーチ』史実に異議あり!【後編】

アカデミー賞受賞の呼び声が高い歴史大作は、英王室とチャーチルを無批判に美化する作り物だ

2011年2月25日(金)18時42分
クリストファー・ヒッチェンズ

国民に向けて 誰もが戦争は回避したかったが(2月26日公開) © 2010 See-Saw Films. All rights reserved.

<前半はこちら

 『英国王のスピーチ』の脚本を手掛けたデービッド・サイドラーは、私がこの映画を「中傷」したと言う。だが、私が先の記事で指摘したのは以下の点だ。

1) 当時のイギリスでは、ヒトラー宥和策に対する反対運動が大きなうねりをみせていた。労働党や自由党、さらには保守党の幹部議員まで巻き込んで、再軍備と反ヒトラー勢力の団結を掲げる超党派グループが生まれていた。しかしチャーチルは、親ナチスのデービッド王子に対する命懸けとも言える忠誠を貫くためにこれを離脱。グループの指導者たちはひどく落胆した。

2) 1938年、戦争回避を望むチェンバレンがナチス・ドイツと結んだミュンヘン協定により、チェコスロバキアの一部がナチスに割譲された。ここでヒトラーに売り渡されたのはチェコの国民だけではない。スコダ社の軍需工場を中心とするヨーロッパ屈指の武器製造基地も、ヒトラーの手に渡ることになった。

 サイドラーはミュンヘン協定について、「チェンバレンには軍備を整える時間が必要」だったと語っている。だが、この常軌を逸した取り決めのおかげで軍備増強が見込めたのはドイツだけ。当時、多くの人がそのことに気付いていた。「時間稼ぎ」が出来たのはヒトラーの方だったのだ。

3) 英国王と女王は世論に同調したり、従ったりはしなかった。それどころか、世論がチェンバレンの味方につくよう決定的な役割を果たした。ミュンヘンから帰国したチェンバレンは王室の使者に出迎えられ、バッキンガム宮殿に直行。チェンバレンは宮殿のバルコニーに国王夫妻と並んで立ち、民衆の歓声を受けた。協定書がまだ議会に提出されていないにも関わらずだ。このパフォーマンスは、メディアや国民に多大な影響を与えた。

英王室、史上最悪の越権行為

 憲法問題に関するサイドラーの無知ぶりは、ほとんど完璧と言っていい(本当に知らないのであれば、の話だが)。王室は現在進行形の問題については中立を保たなければならない。特に議会の承認前となれば、これは甚だしい越権行為だ。君主制支持者で保守派の歴史家アンドルー・ロバーツは著書『チャーチル偉人伝』の中で、バルコニーの問題について徹底的な議論を展開し「イギリス元首による史上最悪の違憲行為」という指摘に賛成している。これは実に正しい。

4) 92年に亡くなったエリザベス皇太后でさえ、彼女の伝記を書いたウィリアム・ショークロスに対し、自分と「バーティー」(夫のジョージ6世のこと)がしたことは間違っていたと語っている。ただし彼女は、誰も戦争など望んでいなかったと自己弁護もしている(ミュンヘン協定がナチスに有利に働き、第二次大戦への道を現実的なものにしたことは間違いないのだが)。

 では彼女とジョージ6世が、開戦後もなおチェンバレンを首相の座に留めておこうと個人的に働きかけたのはなぜか。ドイツ軍がすぐそばまで迫る中、なぜチャーチルではなくナチス宥和派のハリファックス外相をチェンバレンの後任に推したのか。この辺りはわかっていない。

 ハフィントン・ポストの取材に応じたサイドラーは事実誤認どころか、ミュンヘン協定を擁護する役に成り下がっている。先の記事で私が書いたように、『英国王のスピーチ』は最高の役者陣が揃った(ひどい演技を見せたチャーチル役のティモシー・スポールを除いて)、素晴らしい映画だ。あれほど観客を楽しませてくれた役者たちならオスカーを手にして当然だろう。

 だが史実を突き付けられて、「中傷された」と被害妄想に陥るサイドラーのような男が脚本賞を手にしたら? アカデミー賞は、極めて欠陥だらけの物事や人物に賛辞を贈ることになる。

Slate.com特約

─自分も吃音で73歳のサイドラーが『英国王のスピーチ』を完成させるまでの執念の物語、
■「国王に言葉を与えたオスカー候補の内なる声」
は、2月23日発売の本誌3月2日号でどうぞ(カバーは特集はセレブ外交官のジョージ・クルーニー!)
─『ソーシャル・ネットワーク』『トゥルー・グリッド』など今年のアカデミー賞候補を総ざらいしたウェブ特集「アカデミー賞を追え!」も、今週末の発表前にチェックお薦めです

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米中が24日会合、貿易摩擦緩和目指し=トランプ氏

ビジネス

米3月耐久財受注9.2%増、予想上回る 民間航空機

ワールド

トランプ氏、ロのキーウ攻撃を非難 「ウラジミール、

ビジネス

米関税措置、独経済にも重大リスク=独連銀総裁
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは?【最新研究】
  • 2
    日本の10代女子の多くが「子どもは欲しくない」と考えるのはなぜか
  • 3
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 4
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 5
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    「地球外生命体の最強証拠」? 惑星K2-18bで発見「生…
  • 8
    謎に包まれた7世紀の古戦場...正確な場所を突き止め…
  • 9
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初…
  • 10
    【クイズ】世界で最もヒットした「日本のアニメ映画…
  • 1
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 2
    しゃがんだ瞬間...「えっ全部見えてる?」ジムで遭遇した「透けレギンス」投稿にネット騒然
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    【クイズ】売上高が世界1位の「半導体ベンダー」はど…
  • 9
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 10
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 8
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 9
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 10
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中