日本の郊外にあふれる「タダ同然の住宅地」 無責任な開発が生んだ「限界分譲地」問題とは
畑の真ん中に分譲地が作られたワケ
図版1は、1972年7月13日付の読売新聞に掲載された「千葉 第2洋光台分譲地」(千葉県旧印旛郡富里村、現・富里市)の住宅分譲地の広告である。右側には、同じく当時ピークを迎えていた、同一の会社による群馬県の分譲別荘地の広告も見える。
全面広告で、当時の一般的な不動産の新聞紙面広告と比較しても大きい。この物件は、70年代の千葉県北東部で典型的に見られたミニ開発の分譲地である。
一見すればごく普通の不動産広告だが、よく読むと、今日の感覚では少々奇妙な印象を受ける。
分譲価格や資金計画における優位性を謳う一方で、住宅地の情報として本来必須であるはずの、周辺環境や近隣施設への言及がまったくない。住宅建築に関する提案もなく、ただ土地の分譲のみに特化し、生活感に欠けている。
実際、この分譲地は最寄り駅である総武本線八街駅からも決して近くなく、分譲地の周辺は今も広大な農地が残された畑作地帯だ。
生活利便施設に乏しい農村エリアなので、利便性の面で大きく宣伝できる要素があまりないのも事実だ。だがこの分譲地は、建前では住宅用地を謳っているものの、現実には売り手も買い手も直ちに住宅地として利用することを想定していない。
地価の値上がりを見込んだ財形貯蓄の手段としての、いわば投機商品だったのである。
人々が土地を買い漁った
開発ブームに沸いた高度成長期は、所有地を住宅団地やゴルフ場、レジャー施設などの開発用地として売却し、大金を手にする地主が続出した。
土地需要が高まり地価は上昇を続けた。多くの人が「土地所有こそが資産形成の最も堅実な手段」であると信じていた時代である。
そのため使う予定がなくても、人々は現金を土地に替えた。投機熱は住宅用地に及び、ついには投機目的に特化した分譲地まで登場する始末となった。
1970年代は、北海道などの僻地にある無価値な原野や山林を、あたかも資産価値の高い不動産であるかのように騙って分譲する「原野商法」が大きな社会問題になった。原野商法の土地も、まさに紛れもない投機型分譲地の一種であった。
前述の富里市の分譲地は今日でも住宅用地として利用されている。周辺は都市化とは無縁であり、分譲当時と大差はないであろう農村風景が今も残されたままだ。
広告に記載されている八街駅からのバス路線は廃止されて久しい。民間バス撤退後に走っていた市営のコミュニティーバスすらも廃止された交通空白地帯の中にある。
空き地は「売れ残り」ではない
分譲地に一歩足を踏み入れて、最初に目につくのは空き地の多さだ。
季節は夏なので、どの空き地も猛烈に雑草が繁茂しているが、これは家屋が取り壊されて更地にしてあるのではない。大部分が分譲当初から今日まで一度も家屋が建てられることもなかった空き区画である。
この光景を見ると、立地が不便だから分譲はしたものの販売が振るわず、空き地のまま売れ残っているのだと考える方がいるかもしれないが、それは大きな誤解である。