「58円の野菜ですら丁寧に包装」 日本の農家がやりがい搾取の沼にハマる根本問題
日本にはこの時、ヨーロッパから「労働」という働き方ももたらされました。要するに「働くときは全身全霊で働く。そこに遊びを持ち込むなんて怪しからん」という価値観です。ヨーロッパにおける労働がこのような価値観だったのは、古代からヨーロッパにおいては労働とは奴隷が行うことだったからです。ドイツの政治哲学者であるハンナ・アレントは、主著『人間の条件』の中で、古代ギリシャ以来のヨーロッパ的な労働を概観した上で、次のように述べています。
「労働することは必然〔必要〕によって奴隷化されることであり、この奴隷化は人間生活の条件に固有のものであった。人間は生命の必要物によって支配されている。だからこそ、必然〔必要〕に屈服せざるをえなかった奴隷を支配することによってのみ自由を得ることができた」(『人間の条件』137頁)
要するに、労働とは生活するための必要性に迫られて、嫌々ながらもするしかない単なる苦役だということです。
それでは、ヨーロッパで実際に労働に従事している人々には、労働の楽しみがなかったのか。私にはそうは思えません。どんな辛い日常の中でも希望を見出して生きるのが人間だからです。労働を単に必要性に迫られた奴隷的な活動であると一方的に決めつける超越論的な視点は、あまりに上から目線でしょう。それでも、労働の中に楽しみを見出す考え方は、ヨーロッパ社会の支配的な価値観とはなりませんでした。
ヨーロッパは階級社会として成立したこともあり、近代化以降もこの考え方は大きく覆されることはありませんでした。身分が低い人の労働観を掬い上げて言語化し、それを支配的な労働に対する価値観の中に組み込むということにはならなかったのです。貴族にせよ資本家にせよ、労働者を雇用している人にしてみれば、労働者は労働に楽しみなど見出さず一心不乱に働いてもらった方が「合理的」だと考えたからです。
このように、日本が輸入したヨーロッパの「労働」には、必要性に迫られた「苦役」の考え方が根強く存在しており、労働に従事する労働者に対する差別意識が根強く存在していたのです。
遊びの要素を含んだ日本の働き方
一方、日本では、ヨーロッパ由来の労働観がかなり根付いた現在でさえ、勤勉に働くこと、額に汗して働くことは美徳であるという価値観が明らかに備わっています。それは、労働に対しての差別さえ含んだ強烈なマイナスイメージとは全く異なる価値観です。この理由は様々ですが、その一つは伝統的な日本社会の働き方が「労働」ではなかったことにあります。
伝統的な日本人の働き方は、ヨーロッパ社会における労働のような必要性に迫られた苦役ではなく、「遊び」の要素を含んでいたとされます。このような働き方が「仕事」です。民俗学では、現在の日本でも農業や漁業のような自然を対象とした仕事の中には、このような古いタイプの働き方が残っているという研究がなされています。
農業のような自然を対象とした仕事は、他の産業よりもはるかに古くから存在しているため、古いタイプの価値観がより強く温存され続けてきたのでしょう。もちろん農業は色々な面で他の産業より近代化のスピードが遅れていたという面もあります。