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1日30万円稼ぐ「カリスマリンゴ売り」 妻子6人を行商で養う元ジャズピアニストの半生

2021年2月9日(火)14時15分
川内イオ(フリーライター) *PRESIDENT Onlineからの転載

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通りすがりの母子。リンゴジュースを4本買った。(撮影=筆者)

「リンゴ売りにニーズはいらない」

どこで売るのかは、その日の気分。「ここの場所はよく売れる」「ここにはリピーターがたくさんいる」というマーケティングデータのようなものは、一切、気にしない。「本当の音」を聞くためには、誰も自分のことを知らない場所がいい。

ビジネスでは「ニーズ」が重視されるが、片山さんは「リンゴ売りにニーズはいらない」という。片山さんの行商を見ていると、「リンゴは好きじゃない」「ちょうど今、家にリンゴがいっぱいある」という人たちが、次々とリンゴを買って帰る。それはもはやリンゴが欲しいわけではなく、今この瞬間に初めて会った片山さんとの掛け合いに、投げ銭しているようにも見える。

こう書くと、不要なものを売りつけているように勘違いしてしまうかもしれないが、リンゴを買ったお客さんたちは、「お隣さんに分けよう」「おいしいリンゴだから、ジャムにしよう」などなど自らリンゴの行き先を口にする。「今日はいい日だな」と呟いた若者のように、最終的には、「いいものを買った」と笑顔で立ち去るのだ。

片山さんは、「リンゴの売り方があるんじゃなくて、今までどういうふうに生きてきたかが問われる」という。

「なにかの壁にぶち当たった時の突破方法ですね。僕はあの時にこうしたとか、それぞれのバックグラウンドがあるじゃないですか。一度、素になって、そこに立ち返ることができると、突然、売れ出すんですよ。逆に、自分に違和感があると、ぜんぜんお客さんを呼べません。店に残るのは、素になれた人だけですね」

今回の取材で片山さんのサポートに入ってくれたマキさんは小柄で物静かな雰囲気で、片山さんとまったく印象が異なる。「私、人見知りなんです」と語る彼女が、1日に平均10万円を売り上げると聞いて、仰天した。1日4万円、10日で40万円を稼ぐ敏腕の売り子なのだ。

盲目のピアニストとの出会い

世田谷店にはマキさんのような精鋭がそろっており、リンゴの売り上げはもはや盤石。月商1000万円が見えたところで、これまで通りなら、また新たな店を開くところだが、店の展開は3店舗までと決めていた。さて、どうしようかと考えていた矢先の2020年の春、新型コロナウイルスが日本でも猛威を振るい始めた。

コロナ禍で行商しづらくなったため、ムカイ林檎店でもお客さんからの注文を受けるやり方にシフトし始めた。その時に、大きな転機となる出会いがあった。

店の近所に配達に行った時のこと。玄関先でいつものように少し言葉を交わしたら、そのお客さんが語り始めた。あるピアニストのファンクラブを統括する仕事をしていること、コロナでコンサートやレッスンがすべて中止になり、そのピアニストが収入を絶たれて困窮していること。

そのピアニストは、片山さんが何度も演奏を聞きに行ったことがある全盲のピアニスト、梯 剛之(かけはし たけし)さんだった。片山さんはほぼ無意識のうちに、「CDの在庫ないですか? あれば全部行商で売ってきますよ」と言っていた。

数日後、そのお客さんの紹介で梯さんに会って、コロナ下の苦境にあってもユーモアを失わないタフな人柄に感嘆した片山さんは、5種類のCD、45枚を無償で行商することに。世田谷店の仲間に話をすると、数名が手伝いたいと名乗りを上げてくれた。

当日は、軽バンにCDを載せて出発。CDを試聴できるようにしただけで、あとはいつもと変わらない。道行く人に「CDいりませんか?」と話しかけ、足を止めてくれた人たちに、梯さんの話をした。その日、8時間で38人のお客さんにすべてのCDを売った。後日、売り上げの11万2500円を梯さんに届けたという。

「花 開くとき 蝶来たり」

この経験が、片山さんに次の道を拓いた。前述したように、リンゴの行商だけなら、本気でやれば月に10日働くだけで生きていける。残りの日に、自分が好きな作家やアーティストの作品を無償で行商しようとひらめいたのだ。

なぜ、無償なのか。すでにリンゴを売って十分に稼いでいるという理由とともに、片山さんが「本物」と認めた人たちの追い風になることで、その人たちに心置きなく新しい作品を生み出してほしい、その作品が見たいという想いがある。それはきっと、コンサートスタッフ時代に、舞台の袖で鳥肌が立つような芝居や演技をただ無心で見たことも影響しているだろう。

さらに、まったく異分野の自分が作品を行商することで、それが巡り巡ってどんなことが起きるのかを観察したいという想いもある。路上でリンゴを売っていると、ドラマか映画のような出来事に、時折、遭遇する。それが、リンゴ以外のものでも起きたら、どうなるのか。

作品を行商する話はすでに動き出しており、間もなく始動する。片山さんは、ジャズピアニストを辞めて、リンゴの行商で生きていくと決めた時の心境を、こう語っていた。

「リンゴ売りってアングラなんで、なにかもっとやりたいなみたいな気持ちもありました。でも、ジャズピアニストを辞めると決めた時に、俺はここ(リンゴ売り)から動かん、ここを掘っていけば、『花 開くとき 蝶来たり』(良寛の詩)のように、花が咲けば必ず蝶は来る、だから自分の花を咲かすことに集中しようと思ったんです。咲かなかったらそれまでやし、もうかまわんって」

19歳の時から19年、リンゴの行商を突き詰めてきたことで、花が咲いた。今、その花をめがけて、蝶が飛んできているように感じる。その蝶は、花粉をどこに運んでいくのだろうか。



川内 イオ(かわうち・いお)


フリーライター

1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンター。2002年、新卒で広告代理店に就職するも9カ月で退職し、03年よりフリーライターに。06年、バルセロナに移住し、サッカーのライターをしながらラテンの生活に浸る。10年に帰国後、2誌の編集部を経て再びフリーランスに。現在は稀人ハンターとして複数メディアに寄稿するほか、イベントの企画やコーディネート、ラジオ出演など幅広く活動する。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)がある。

※当記事は「PRESIDENT Online」からの転載記事です。元記事はこちら
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