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コラソン・コハンコ・アキノ(フィリピン/元大統領)
夫ベニグノ・アキノの暗殺後、「ピープルパワー」運動の旗手として「ただの主婦」から大統領に
民衆の代表 黄色がトレードマークだったアキノ。大腸癌で8月1日に76歳で死去
(写真は99年当時) Reuters
夫のニノイは殺され、マルコスの力は揺るぎないように見えた。指導者不在のフィリピン野党勢力は壊滅状態だった。そんな状況のなか、黄色の服をまとった未亡人が本領を発揮しはじめた。
まず、全国統一委員会と共闘する用意があると発表して、同委員会に批判的だった昔ながらの政治屋連中を驚かせた。そして、保護者ぶって政治のお説教をしようとした男性には、落ち着いた声できっぱりこう告げた。「言っておきます。あなた方が私に指図をするのはこれが最後。もうたくさんよ」
男同士が議論している間は礼儀正しく耳を傾け、その後は上品な口調で、それ以上口出しをさせないように警告する。いかにもコリーらしいやり方だ。157センチと小柄で、一見絹糸のように繊細なコラソン・コハンコ・アキノだが、機敏で不屈、こうと決めたら後には引かない。
28年間というもの、彼女はカリスマ的な夫ベニグノ・アキノの影に隠れていた。自分のことを何の政治的役割のない「ただの主婦」とみなしていた。だが、家族を思い大切にする気持ちは不動だった。夫が投獄されたときには彼の仕事を引き継ぎ、80年に亡命したときも行動を共にした。夫の暗殺が、このとても内気な夫人を公の場に引き出すことになった。未亡人と政治家の生活が同時に始まった。どちらも、ほとんど何の準備もなかった。
しかし強い精神力を内に秘めたこの非凡な女性は強靭になっていた。そしてマルコスが腐敗のために崩壊した今、突如として男たちの誰もが予想もしなかったような人物に変身していた。5500万人の国民の上に立つ、無駄口を一切きかない指導者となったのである。候補者から大統領になるまで、わずか75日のことだった。
インドの故インディラ・ガンジー首相の場合は、父親が自分の後継者になるよう育てた。サッチャー英首相は、男性のライバルを相手の土俵で負かす経験を積んだプロの政治家である。アキノ大統領は、行政の長として毎日の仕事を通して自らを鍛えねばならない。
優しいが目立たない米国留学時代
男性上位がまかり通るフィリピン政界で、女性と一緒に働いた経験さえない男たちを相手にしながら、実地で学んでいくしかないのである。やる気がくじかれるような仕事に、彼女は根性とユーモアと計り知れないスタミナをもってぶつかっている。深い信仰心と自立を目指す強い意志も、強力な武器になるだろう。
周囲にいる男たちは、敵味方を問わず、政治的経験をまったくもたない彼女に試練を与えるにちがいない。左派勢力が彼女の勇気を試すのは確実だ。新人民軍(NPA)の活動によって、コリーの決意の固さが試されるのも目に見えている。しかし、アキノをかつての家庭婦人のままだと高をくくると、驚かされる羽目になるだろう。ベニグノ・アキノの盟友で農相に任命されたラモン・ミトラは言う。「もはやコリーは、かつてコーヒーを出してくれた頃の彼女ではない」
コラソン・コハンコは1933年、ルソン島タルラック州の裕福な名家に生まれた。一家は60平方キロほどの広大な砂糖キビ農園を営み、祖父は上院議員、父も下院議員という政治家一家でもあった。大戦中フィリピンを占領した日本軍の銃剣で、一族の分家の一つがほとんど皆殺しにされた。その結果、深窓の令嬢コリーは普通のフィリピン国民との一体感に早々と目ざめることになった。