コラム

ボストン・テロ事件で米ロ関係はどうなる?

2013年04月23日(火)11時45分

 4月15日のボストン・マラソン爆弾テロ事件は、18日の木曜日の夜以降、約23時間という容疑者兄弟の追跡劇の結果、兄は死亡、弟は逮捕という「結末」を迎えています。この事件ですが、展開によってはオバマ政権の政策にも影響を与えかねない問題も含んでいるのですが、現在のところはアメリカの世論は冷静です。

 まず、米国とロシアとの関係、そしてチェチェンの一連の独立紛争と「テロ」の問題ですが、極めて興味深いのは、アメリカとしてはこの事件に大変なショックを受けているのは事実なのですが、過去の「チェチェンのテロ」に関する報道はほぼ皆無なのです。例えば、2002年のモスクワの劇場でのテロ、2004年の北オセシアでの学校テロなどの紹介ということはメディアを通じて一切行われていません。

 その一方で、共和党の保守派などは「アメリカはイスラム教徒の聖戦(ジハード)テロに狙われた」であるとか「アルカイダとの関連を徹底的に調べるべきだ」などという発言を繰り返しているのです。こうした動きの全体はどこか不自然なものを感じます。というのは、本当にこの兄弟がチェチェンの過激派に影響を受けた、あるいは「洗脳され」ているのであれば、それはアルカイダとは無関係であり、チェチェンの独立紛争とテロ事件など「チェチェン・ロシア紛争」の文脈を参照することになるのが自然だからです。

 これを「不自然」というのは適当ではないかもしれません。むしろアメリカは大変に冷静であり、テロの原因は、あくまで兄弟の心の軌跡に求めていく、チェチェンの歴史に責任をかぶせて敵視することはしていないという説明が正しいのかもしれません。

 ですが、過去の米国の発想法から考えると、今回の反応は冷静というだけではないものを感じるのです。そこには、米国とプーチンのロシアの関係が事件の直前まで極めて冷却していたということを反映している、そう考えるしかないように思われます。

 基本的にここ10年強のアメリカは、ロシアとは「付かず離れず」という関係を続けて来ました。90年代のクリントン政権はエリツィンのロシアを「無害化するため」に支援をして来ましたし、2000年代のブッシュ政権は、アフガンでの対タリバン作戦を進めるために、ロシアの支持を取り付ける代わりに、「チェチェン問題は同じイスラム原理主義との戦い」だというプーチンの主張を、100%認めるわけではないものの、黙認に近い姿勢を取っています。

 その一方で、2008年夏に南オセシアを巡るグルジアとロシアの紛争が勃発した際には、共和党の大統領候補としてオバマと争っていたジョン・マケインは「グルジアはアメリカと運命共同体」だと言ってロシアに対する露骨な敵視をしています。同様に昨年2012年の大統領選でも、共和党のロムニー候補は「ロシアを仮想的」と言わんばかりの姿勢を見せていました。

 ブッシュ(その背後にはライス元国務長官というロシア通がいたわけですが)を例外とすれば、共和党は「敵味方」の問題としてプーチン敵視という姿勢なのですが、一方で民主党の方はというと「人権」の問題でロシアを問題視してきたわけです。例えば、今回の事件の直前までは、「マグニツキー法」という問題がありました。この問題は2009年に遡るのですが、ロシア政府の中の腐敗を追及し続けていたセルゲイ・マグニツキーという弁護士は、一貫してプーチン政権の批判を続けた結果、逮捕されて2009年に獄死しているのです。

 この事件に関して、アメリカは「拷問の結果の死」であるとして、ロシア内務省の官僚など「実行犯」の氏名を調べあげているのですが、この「マグニツキー法」というのは、その関係者の米国での資産凍結、米国への入国禁止などの「制裁」を行うというのですから、これは穏やかではありません。

 これに対してプーチン政権は、「米国民によるロシア孤児との養子縁組」の禁止という措置で対抗しており、この措置への反対運動が養子縁組の支援組織を中心に米ロ両国で起きるなど、お互いの制裁合戦がエスカレートしていたのです。

 更にこの「米ロの舌戦」というのは、英国における「反プーチン活動家」への保護と、英国内でのそうした「反プーチン活動家」の怪死事件などにおける「英国の姿勢に対するアメリカの支持」ということと重なってくるわけです。例えば2011年のロシアにおける反政府運動の高揚や、最近の「反プーチンのブロガー」として有名なアレクセイ・ナワルニーなどの存在には、アメリカが暗黙の支援を与えているということは言えると思います。

 今回の事件は、そうした米ロ関係の文脈の中でも位置づけられると思います。例えば、今回の15日のテロの3日前、2013年4月12日には、アメリカのオバマ政権は「マグニツキー氏の怪死に関わるロシア人12名のリスト(俗にいう『マグニツキーのリスト』)」を公表しており、プーチンを激怒させています。

 今回の事件でアメリカの世論が急速にロシアに対して軟化することがない、例えば「同じチェチェンのテロの被害者」として連帯感を持つには至らなかったというのには、こうした政治的な背景があるように思います。アメリカの世論はそこまで詳しく米ロ関係のことを知っているのではないのですが、メディアは明らかに「チェチェン過激派は米ロの共通の敵」というストーリーになることを「回避」しているのは事実だと思います。

 勿論、今後の捜査の進展で、明らかに「アメリカを狙った組織的な犯行」だという証拠が出てくれば話は変わってくるでしょう。ですが、現時点ではアメリカの当局も、世論もこの点では冷静です。その背後には、一筋縄ではいかない米ロ関係があるのだと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 8
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 9
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 10
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story