コラム

TPP交渉に向けて、日本の農業は何を核に据えれば良いのか?

2010年11月08日(月)11時28分

 来週の横浜APECではTPP(環太平洋自由貿易協定)締結へ向けての交渉が本格化すると思います。80年代の日米貿易摩擦、そして牛肉オレンジ交渉や米輸入自由化交渉など、様々な形で日本は農産物輸入に関する障壁を守ろうとしてきましたが、ここに至ってそうした国内農業保護の政策は大きな転機を迎えそうな雲行きです。では、日本の農業は、農政はどうして行ったら良いのでしょうか?

 ここ30年ほどの日本では、都市部を中心に漠然とした形で「莫大な税金が投入されても、まだまだ市場を関税などで保護しないと成立しない農業」への否定的な視線が続いていたように思います。必死で働いてトヨタやソニーが世界一の品質を実現していても、自国の農業市場が閉鎖的なので、貿易摩擦の際に思うように自由貿易を主張できない、そんなフラストレーションが都市部を中心とした世論にありました。ただ当時の自民党を中心とした政局に関しては、都市対地方という対立軸はなかったので、世論としては選択のしようはなかったのです。

 細川内閣の行った米の輸入解禁も、あれほどまでに大騒ぎをして決定していたにも関わらず、結局は輸入米は「防カビ剤の入った事故米」という建前で処理され、ジャブジャブと逆ザヤという税金が投入されてウヤムヤになっています。そんなわけで、今回のTPP論議について言えば、日本としては近代化以降ここまでの農産物の貿易自由化論議はなかった画期的なものになるのだと思います。反対が多いのも当然といえば当然です。

 ではTPPを蹴るとか先延ばしにするということは可能なのでしょうか? 私は現在の日米中+欧州アジアの政治状況や経済の状況を考えると、このタイミングでTPPを受け入れるような素早い意思決定を行うほうが、日本の成長のためには必要だと考える立場です。では、日本の農業はどうなっても良いのでしょうか? 決してそんなことはありません。もはや雇用の受け皿としても機能しなくなった農業ですが、それでも田園風景や生態系維持のためには必要です。ですが、それだけでは今後巨額な国費を投じてTPP対策の農業保護を行う理由としては不足です。

 どうして農業を保護しなくてはならないのか? それは食料自給率維持のためです。といっても、俗に言う「食料安全保障論」というのは根拠にはならないと思います。戦略物資としての食料をストップすると脅されることで、国の独立が怪しくなるなどということはないのです。それ以前に敵が真剣に仕掛けてくれば情報戦と心理戦でズタズタにされることを思うと、食糧自給で頑張れば八方が敵に囲まれても独立が守れるということは考えられないからです。

 そうではなくて、今後日本が恐ろしいほどのハイパーインフレに見舞われて、国民の生存に必要な食料を輸入するだけの外貨が底をつく、そうした可能性を念頭に置くべきだと思います。そうなったら餓死すれば良いとか、そうなったら暴動と革命で日本が再生するだろうなどという暴論もあるでしょう。ですが、これも賛成できません。仮にそんな状態になったとしても、日本という社会は耐えぬいて最低限の自分たちの美質を守り、いつの日か若年人口が少しずつ増えて社会が明るくなったときには経済も社会の明るさも反転させて行く、そこまで生き抜いて行かねばならないのだと思います。

 そのために私は日本の農業は守るべきだと思います。ただ、全てを国費で補償して競争のない世界に追いやるのは危険です。自由化した農業の部分、つまり高付加価値を追い求めて新たな国際競争力を獲得して自立してゆく部分と、公的な資金で長期的な自給率維持のために貢献する部分と、つまり自由化された部分と補償された部分が一軒一軒の農家、一つ一つの地域ごとにバランスを取ってゆくようにしなくてはならないと考えるのです。

 その場合は、とかく外国との摩擦や、価格転嫁が発生することから消費者との摩擦になりやすい関税方式ではなく、国内農業へのダイレクトな補償という方が世界の主流であり、その意味で戸別補償制度というのは理にかなっているように思います。その上で、戸別補償を受けながら同じ農家、同じ地域が「創意工夫が収益になる」自由競争の高付加価値農業にも夢を求めて行けるようにすべきでしょう。この部分がないと、やはりその産業としては誇りが生まれてこないと思うからです。

 アメリカの農業について言えば、決して自由競争だけでやっていける構造にはなっていません。収入の30%前後は補助金というのが全米の平均だと思います。それでも、私の住むニュージャージーの近郊農業でも、隣のペンシルベニア州の大規模農業にしても、季節ごとに農機具を効率的に使って、農地を美しく耕作している姿には一種の誇りが感じられます。その誇りというのは、大規模化や効率化に向かうにしても観光農業に向かうにしても様々な創意工夫をする余地があるからだと思います。

 勿論、農政というのは大変に難しい要素があって、理想型へ持ってゆくどころか試行錯誤が続くのだと思います。ですが、TPPを受け入れる場合に、日本の農業の活力と自給率を低下させないようにするには、やはり関税から直接補償へ、そして直接補償と自由競争のミックスによる産業としての誇りの維持ということが重要なのではないかと思うのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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