コラム

若返り続くアメリカのオーケストラ指揮者事情

2010年07月30日(金)12時11分

 スポーツで言えば、野球やサッカーの監督人事が大きな話題になるように、クラシック音楽の世界では名門オーケストラの指揮者の人事というのは、色々な意味でその街の話題になります。何と言っても指揮者が長年にわたってその街のオーケストラを率いて高い評価を得るようになると、市長やスポーツのスター選手と同じようにその街の「顔」となるからです。特に指揮者の場合は、15年とか20年という「長期政権」になる場合もあって、例えばボストン交響楽団の音楽監督を29年も務めた小澤征爾や、ニューヨークフィルとの関係を生涯続けたレナード・バーンスタインなどはそうでした。日本の場合でも、岩城宏之氏の創設した「オーケストラ・アンサンブル・金沢」を、岩城氏亡き後にしっかり受け継いだ井上道義現音楽監督などは、金沢の街の人々には「井上マエストロ」と呼ばれて敬愛されています。

 ところで、オーケストラの指揮者といっても、その責任範囲というのは色々バリエーションがあります。中でも、アメリカの場合は、オーケストラを代表する指揮者のことを音楽監督(ミュージック・ディレクター)と呼んで幅広い権限を与えるのが通例です。そもそもアメリカのオーケストラというのは、秋から翌年の初夏にかけての「楽季(シーズン)」にはほぼ毎週3回公演を行い、週毎に演目を変えて行くというハードスケジュールになっています。勿論、1つの楽季の全ての演目を音楽監督が指揮するというのはムリなので、様々な客演指揮者を迎えるのですが、アメリカの音楽監督の場合はだいたい10週から12週は担当することになっているようです。

 それだけではありません。ヨーロッパや日本との大きな違いは、アメリカの音楽監督は「オーケストラのトップセールス」として、その街の財界や社交界にまんべんなく顔を出して、楽団運営の基本となる寄付金を集めて来ないといけないのです。どうして、アメリカの音楽監督だけがそうした「面倒な仕事」をしなくてはならないのかというと、アメリカでは音楽や演劇などの文化活動への公的助成が少ないことから、オーケストラは入場料と寄付金だけで運営しなくてはならないからです。ちなみに、小澤征爾という人が、どうしてボストン交響楽団であれほど敬愛されたのかというと、この「寄付金集め」をイヤな顔1つしないでコツコツやって歩いたということも大きいようです。

 そんな事情を抱えたアメリカの名門オーケストラでは、ここのところ、若手の音楽監督が続々誕生しています。まず、ニューヨーク・フィルハーモニックでは、2009年にベテランのロリン・マゼールが引退した後任としてアラン・ギルバートが就任しています。ギルバートは、両親が共に(本人も)ニューヨーク・フィルの奏者で、中でも母親は日本人という日系二世かつ「生粋のNYっ子」として話題を呼びました。昨年秋の就任以来、現代音楽を組み合わせた意欲的なプログラムと、弦楽の音色を明るく変える指導でなかなか好調な滑り出しを見せています。一方で、西海岸の名門、ロサンゼルス・フィルは、世界的人気を誇るベネズエラのスター指揮者、29歳のグスタボ・デュダメルを音楽監督に迎えて、こちらも大変な盛り上がりのようです。

 その一方で、東海岸の名門オーケストラのフィラデルフィア管弦楽団は、2008年にドイツ人の大物指揮者クリストフ・エッシェンバッハが音楽監督を辞任して以来、ゴタゴタが続いてきました。このエッシェンバッハという人は、確かに大物なのですが、一部の楽団員やフィラデルフィアの地元新聞と確執があり「練習時間が長すぎて楽員が離反」という記事を書かれたことに激怒、また同じ新聞に「突然テンポを変える(確かにこの人のスタイルではあります)解釈が不自然」などと批判もされ、通常は2期10年の政権が期待される中で、1期で辞めてしまったのです。

 楽団としては指揮者が「空席」という事態は避けたいので、最終的にはNHK交響楽団の指揮などで日本でもおなじみのシャルル・デュトワを引っぱって来たのですが、このデュトワ氏は色々と条件を出したのでした。それは「寄付集めなどの責任がついてくる音楽監督はやらない」というのと、「自分はあくまで暫定」という扱いでした。そこでオーケストラは「首席指揮者兼芸術アドバイザー」という妙な称号を作ってこの巨匠を迎えたのです。それが2008年9月で、ちょうどリーマン・ショックが襲ったのと同じタイミングでした。

 このオーケストラには、リーマン・ショックの影響はかなり厳しいものとなりました。というのは、オーケストラ全体のメイン・スポンサーだったスイスの銀行、UBSが一気に破綻して公的資金が注入される中、「外国のオーケストラに寄付などできない」状況に追い込まれてしまったのです。デュトワとフィラデルフィア管弦楽団はなかなか良い演奏を続けていましたが、忙しいデュトワはそんなに多くの演目は振れない中、客演指揮者がコロコロ替わる落ち着かない雰囲気がありました。

 そのフィラデルフィア管弦楽団は、先月遂に懸案の音楽監督人事を発表しました。デュトワの後任、しかも本格的な音楽監督として選ばれたのは、35歳、カナダ人の若手指揮者のヤニック・ネゼ・セギンでした。突然の発表だったのですが、私には深く納得がいきました。というのは、このネゼ・セギンがフィラデルフィア管弦楽団を初めて指揮した2008年12月の公演を偶然聞いていたからです。演目はラフマニノフの2番の協奏曲(ピアノはアンドレ・ワッツ)と、「悲愴」というニックネームで知られるチャイコフスキーの6番の交響曲でした。

 協奏曲も素晴らしいアンサンブルだったのですが、この晩の白眉は「悲愴」でした。演奏の前にネゼ・セギンはわざわざマイクを取って「この曲はチャイコフスキーの死の直前に書かれたいわば遺書なので、3楽章が終わった後の4楽章が大事なんです。ですから静かに4楽章に行かせていただきたいんですね」という「指導」を聴衆に対してやったのです。この曲は3楽章が壮麗なマーチになっていて、「ジャーン」と終わると「これで終わり」と勘違いして拍手が出る危険があるのですが、それを防止するという作戦、私にはそう思えました。33歳の指揮者にしては、なかなか良い度胸という印象でした。

 平均年齢の高い聴衆は、しかしキチンと「指導」を守って3楽章の「ジャーン」をやり過ごしたのですが、その後の4楽章の素晴らしかったこと。弦楽を中心とした、正に「悲愴」なエレジー(悲歌)を、思い切りテンポを落とす代わりに歌い方の濃さを上げて行く、そこまでは演出としては良くあるのですが、ネゼ・セギンとフィラデルフィア管弦楽団は休止の間合いの呼吸感も見事で、消え入るように音楽が終わるとキメルセンターのホールはシーンと静まりかえったのでした。今から思えば、あの瞬間にこの街と、この楽団と、この若い指揮者の間に「ケミストリ(化学変化にも似た良い関係性)」が生まれたのだと思います。ネゼ・セギンは、その後、ニューヨークのメトロポリタン・オペラにも『カルメン』を振ってデビューするなど、着実に実績を重ね、遂に名門の「シェフ」の座を射止めたのでした。

 UBSに逃げられたフィラデルフィアだけでなく、アメリカの各オーケストラは今回の不況の影響を相当に受けていると聞きます。そんな中で、それぞれの楽団が思い切って若い指揮者を音楽監督に迎えて、人心の一新を図っているのは興味深い動きです。それぞれに、時代状況の荒波の中で組織としてどう生き残っていくか、そのサバイバルのノウハウも伝統になっているのかもしれません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、米軍制服組トップ解任 指導部の大規模刷

ワールド

アングル:性的少数者がおびえるドイツ議会選、極右台

ワールド

アングル:高評価なのに「仕事できない」と解雇、米D

ビジネス

米国株式市場=3指数大幅下落、さえない経済指標で売
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ウクライナが停戦する日
特集:ウクライナが停戦する日
2025年2月25日号(2/18発売)

ゼレンスキーとプーチンがトランプの圧力で妥協? 20万人以上が死んだ戦争が終わる条件は

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン化」の理由
  • 3
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 4
    1888年の未解決事件、ついに終焉か? 「切り裂きジャ…
  • 5
    飛行中の航空機が空中で発火、大炎上...米テキサスの…
  • 6
    ソ連時代の「勝利の旗」掲げるロシア軍車両を次々爆…
  • 7
    私に「家」をくれたのは、この茶トラ猫でした
  • 8
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 1
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」だった?...高濃度で含まれる「食べ物」に注意【最新研究】
  • 2
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される【最新研究】
  • 3
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ...犠牲者急増で、増援部隊が到着予定と発言
  • 4
    人気も販売台数も凋落...クールなEVテスラ「オワコン…
  • 5
    動かないのに筋力アップ? 88歳医大名誉教授が語る「…
  • 6
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 7
    7年後に迫る「小惑星の衝突を防げ」、中国が「地球防…
  • 8
    墜落して爆発、巨大な炎と黒煙が立ち上る衝撃シーン.…
  • 9
    ビタミンB1で疲労回復!疲れに効く3つの野菜&腸活に…
  • 10
    「トランプ相互関税」の範囲が広すぎて滅茶苦茶...VA…
  • 1
    週刊文春は「訂正」を出す必要などなかった
  • 2
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 3
    【一発アウト】税務署が「怪しい!」と思う通帳とは?
  • 4
    口から入ったマイクロプラスチックの行く先は「脳」…
  • 5
    「健康寿命」を延ばすのは「少食」と「皮下脂肪」だ…
  • 6
    1日大さじ1杯でOK!「細胞の老化」や「体重の増加」…
  • 7
    がん細胞が正常に戻る「分子スイッチ」が発見される…
  • 8
    戦場に「北朝鮮兵はもういない」とロシア国営テレビ.…
  • 9
    有害なティーバッグをどう見分けるか?...研究者のア…
  • 10
    世界初の研究:コーヒーは「飲む時間帯」で健康効果…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story