コラム

アメリカで「小学4年生の数学力」は伸びているのか?

2009年12月11日(金)14時21分

 今週の水曜(9日)の「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙に、「大都市での数学の学力伸び悩み」というタイトルの記事が出ていました。タイトルだけ見ると「格差社会」で郊外に富裕層が逃げ出して、都市が空洞化する「ドーナッツ化」現象をイメージする内容です。アメリカでは、事実、都市部の学力低下が問題になっており、この記事もそうした文脈に沿っているのですが、それでは「伸び悩み」というのは「学力低下」とか「学力崩壊」が進んでいるのかというと、そうでもないのです。

 まず背景にあるのは、ブッシュ前大統領が進めた「ノー・チャイルド・ビハインド(落ちこぼれゼロ計画)」という政策です。この政策に関しては、色々と批判があります。例えば、統一テストの結果で教師の勤務評定を行うのは「やり過ぎ」であるとか、補助金を出す学区には代わりに軍の募兵用に「生徒名簿を連邦政府に提出」するという義務があるのはおかしい、といった声ですが、こうした問題はともかく、全国的には各学年での「到達目標」が設定されて、今でも動いているプロジェクトなのです。

 この「小学4年生の数学」というのは、中でも重視されている指標です。500点満点のテストを行って250点が「合格水準」で、この250点というレベルは、何らかの職業に就いて社会に貢献するための最低限の数学力という定義付けがされています。ブッシュ政権は、2003年から標準テストを隔年で実施し、最終的な目標設定は2014年までに全国平均が250に到達することだとしたのです。2009年現在の全国平均は239で、まだ目標には届いていないのですが、過去6年間で着実に平均値は上がっています。

 この記事の主旨は、とにかく大都市の市内では全国平均を大幅に下回っていること、そしてこのままの推移で行くと、多くの大都市で2014年に目標達成ができない、つまり250点に到達しないのではないかという警鐘を鳴らすものです。ただ、記事によれば、ワシントンDCが2003年に平均203点だったのが2009年には220まで伸ばしており、依然として全国平均には遅れているものの、この勢いを保てばかなりのところまで行きそうで、大都市の中では唯一明るい結果になっているようです。

 このワシントンDCでは、ミッシェル・リーという韓国系の39才の女性が教育総監になって改革を進めているので有名です。リー女史は、ハーバードのケネディスクールで公共政策のMAを取った行政官なのですが、学区に徹底した実力主義を導入、生徒の成績をアップさせたかどうかで教員だけでなく、学校や校長まで厳格に査定したのです。結果的に多くの校長や教員を解雇しただけでなく、ダメな学校を閉鎖するなど、組合と対決しながら進めている改革について、この記事によれば成果が出ているようです。

 リー女史に関しては、学校閉鎖に際して公聴会を省略して独断で進めているとか、人事が公正でないとか民主党系からは攻撃を受けているのですが、とにかく結果を出しているのは事実のようです。彼女に関しては、プラスマイナス色々あるのでしょうが、個人的には黒人人口が圧倒的に多いこの地区で、長い間相性の悪かった韓国系の女性が黒人コミュニティのために頑張っているというのは、非常に興味深いということは言えるでしょう。

 リー女史の方法が良いかどうか、あるいはブッシュ政権の遺産である「落ちこぼれゼロ」計画そのものが良い方法なのかについては国論は割れています。ですが、とにもかくにも貧困層の子供たちを抱える大都市での数学の学力を何とかして向上させようということには異論はないと思います。全国統一カリキュラムを作り、その上で習熟度別に(高校レベルでは同年齢でも上下3学年ぐらいの差をつけた)クラスを編成して、数学の得意な子供のクラスでも、得意でない子供のクラスでも、先生を動機づけして全体の底上げをしよう、その到達度は二年に一度の統一テストでチェックしようという努力そのものは全国で続いているのです。

 こうした取り組みのルーツは、1989年から90年に行われた日米構造協議にあることは余り知られていません。この協議を通じて、アメリから日本に対して「貿易黒字を減らせ、内需を拡大せよ」というガイアツが加えられたのは有名です。ですが、日本側も決して黙っていたわけではなく、アメリカに対して「貴国の場合は中間層の教育水準が低いから、中付加価値製品の生産性が上がらず国際競争力が落ちている」と指摘をしています。アメリカはその指摘を率直に受け止めて、とりわけクリントン政権の8年間に教育改革を進めたのでした。ブッシュの政策はその延長線上にあります。

 構造協議というのは、ちょうど20年前の出来事ですが、当時の日本では「世界に冠たる日本人の教育水準」がガタガタになり、中間層の衰退と国際競争力の低下などということが起きるなどということは誰も想像していませんでした。また、アメリカの、それこそ都市の病理を抱えたワシントンDCの公立校で数学力アップの改革の成果が出る、そんな事態も誰も予測していなかったでしょう。産業構造の変化については、もっと大掛かりな議論が必要だと思いますが、学力の問題はこれと切り離して厳しい検証
が必要だと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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