コラム

ブッシュ政権の「負の遺産」

2009年05月15日(金)10時10分

 オバマ大統領の存在感がすっかりなじんだアメリカでは、アフガニスタンとイラクの戦争を遂行しながら「戦時の団結」を誇っていたブッシュ政権の時代は、遠い昔のような感覚があります。振り子の「揺り戻し」というのは、アメリカ史の中に何度も繰り返された現象ですが、今回ほど大きな変化、そしてその割にはスムースな変わり方というのは珍しいと思います。

 そうは言っても、全てを過去に流すのは不可能です。振り子が振れてアメリカ全体の価値観が変わる中、新しい善悪の基準からすればブッシュ時代に行われた行為を断罪する動きが出てくるのは避けられません。その象徴となっているのが「テロ容疑者」に対して行われた「拷問」、とりわけ「水責め」の問題です。

 ブッシュ政権が、アフガンやイラクなどの最前線で拘束した敵兵や、国内外で逮捕した活動家などに対して「将来のテロ計画」や「仲間の居場所」などを「自白」させるために「水責め」を行っていたことは、当時から賛否両論となっていました。特に、拘束した捕虜に対して拷問行為を行うことは、ジュネーブ条約(戦時国際法)に違反するという点が大きな問題になっていたのです。

 さすがにブッシュ自身は大統領という立場上、実際にこうした行為が行われていたことは認めていません。ですが、当時の司法省が起草した方針には「テロとの戦いで拘束した人間は、犯罪者であって戦争捕虜ではない」とし、アメリカ国外の収容所では犯罪者の権利を保障した憲法の制約もない以上、物理的に自白を強要する行為も違法ではない」という見解が述べられていたのです。

 さすがに強引な解釈であり、民主党だけでなく、当時の与党であった共和党議員団からも、例えば後にオバマと大統領選を戦ったジョン・マケイン上院議員などは厳しい反対論を繰り広げていました。ちなみに、このマケイン議員はベトナム戦争に従軍して捕虜となり敵の拷問を受けた経験から「アメリカが拷問を行えば、捕虜となった米兵に対して敵側が拷問行為を正当化しかねない」という論を展開したのですが、戦時ムード、そしてテロリストの脅威が叫ばれる中では少数意見にとどまっていたのでした。

 バラク・オバマの合衆国大統領就任という事件は事態を一変させました。「失われたアメリカの対外イメージを改善しよう。最高の倫理を掲げることがアメリカの威信につながる」というオバマ大統領は、就任するとすぐに「拷問に類する行為」を厳禁するという大統領令にサインしたのです。

 ただ、大統領自身はこの問題を政争の具にする意図はなかったのです。「今後は禁止、だがブッシュ政権時代という過去の責任は問わない」というのが大統領の立場なのですが、それはイデオロギー的な対立に持っていけば、それこそ自身が公約した「和解と協調」という方針に反することになるからでした。

 けれども、この大統領の方針は徹底できていません。何よりも議会の多数派を占める民主党議員団が「過去の追及」をやりたがっているのは明白です。例えば来年の中間選挙が気になる下院議員などは、「かつて違法な拷問行為を支持したことがある」として共和党の政敵を徹底的に追及することが有権者にアピールすると考えているのです。また一部のメディアもそれに乗っており、拷問肯定派の評論家を呼んで自分と2人で実際に「水責め」を経験してみようなどというリベラル派のTVキャスターまで現れる始末です。

 そんな中、チェイニー前副大統領は猛然と反撃を開始して「こうした対策で何千人というアメリカ人の生命が救われている」と発言、一方で共和党議員団の一部からは「戦争遂行方針の秘密資料の中に書かれてあったのは明白で、議会民主党幹部は当時は黙認していた」という反論が出るなど、泥仕合の様相を呈してきました。

 どうやら、共和党右派の計算は大統領から更なるコメントを引っ張り出そうということのようです。オバマ大統領が左派に引きずられて「過去の戦争犯罪を訴追する」と言おうものなら「公約違反の党派的姿勢」という非難を浴びせることができますし、逆に「戦時における犯罪は免罪する」という見解を、大統領としての公式発言として引き出すことができれば民主党議員団を揺さぶることができるからです。

 そうした行為の「証拠写真」を開示するようにとの判決も出ています。判決自体が「過去の反省を」という時代の流れを受けたものですがで、「開示したことによるイメージアップ効果」よりも「改めて見るに堪えない写真が公開された場合の国際的なイメージダウン」を恐れてオバマ政権としては拒否する構えです。

 そんなわけで、この問題はオバマ大統領にとっては頭痛のタネなのですが、実は困っているのは共和党の中間派や若手議員も同じなのです。「党勢挽回のためには一刻も早くブッシュ=チェイニー時代から決別したいのに、過去の問題が蒸し返されるのは困る」という声が出ているのです。既に世論の大多数はオバマ流の「過去の清算」を支持しているわけで、ブッシュ政権の当事者たちが反撃すれば反撃するほど、共和党の新世代の足を引っぱることになるというわけです。この問題で、本当に頭を抱えているのは共和党側という構図もあるのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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