コラム

誘拐事件を繰り返し裕福な生活をしていた、アルゼンチン家族の闇

2016年08月26日(金)16時20分

『エル・クラン』 (C)2014 Capital Intelectual S.A. / MATANZA CINE / EL DESEO

<アルゼンチンが軍事独裁から民主制へと移行していく80年代前半、誘拐事件を繰り返し、身代金で裕福な生活をおくっていた家族の信じがたい実話>

80年代前半、誘拐によって豊かな生活をしてたいた家族の実話

 ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝いたアルゼンチンの異才パブロ・トラペロ監督『エル・クラン』は、普通の中流に見えた家族が、実は誘拐・殺人によって豊かな生活を維持していたという信じがたい実話に基づいている。

 物語は、アルゼンチンが軍事独裁から民主制へと移行していく80年代前半を背景にしている。軍事政権の時代に国家情報局で働いていたアルキメデス・プッチオは、そんな社会の変化を受け入れようとはせず、家族を巻き込み、軍事政権がやってきたことを金目当てに繰り返していく。

 この映画でまず印象に残るのは、事件に対するトラペロの視点が反映された独特の構成だ。彼は時間軸を巧みに操り、すでに民主制に移行した時点からドラマをスタートさせる。最初に、軍事政権の後を受けて大統領になったラウル・アルフォンシンが、行方不明者に関する国家委員会の活動の成果を称えるスピーチを記録した映像が挿入され、その後にドラマの終盤の一部、主人公たちの家に集団が突入する場面が映し出される。

 1976年から83年に至る軍事政権下では、左翼テロ鎮圧を口実として、労働組合員や学生などの市民が激しい弾圧にさらされ、3万人が拷問・殺害され、行方不明者となったとされる。アルフォンシン大統領のスピーチは、そんな軍事政権が犯した罪が明らかにされ、その問題にひとつの区切りがつけられたことを意味する。一方、そのスピーチの後に映し出されたドラマの断片は、誘拐によって行方不明になった人物を捜索する警官隊が突入する場面であったことが次第に明らかになる。

 このふたつの行方不明者の結びつきには皮肉を感じるが、物語が展開していくとそこにさらに深い意味が込められていることがわかる。

民主制に移行して、誘拐ビジネスが傾く

 物語はそんな導入部から軍事政権末期の82年にさかのぼり、大統領レオポルド・ガルチェリがフォークランド紛争で戦った兵士を称えるスピーチの映像が挿入される。この紛争の敗北は軍事政権に打撃を与えた。トラペロは、主人公アルキメデスが誘拐に手を染める理由を明確には描かないが、想像はできる。テレビで大統領のスピーチを見て、軍事政権も長くはないと踏んだ彼は、自分と家族を守るために手を打つのだ。彼は、金持ちの子息を誘拐し、左翼ゲリラを名乗って身代金を要求する。そして金を得たら、証人である人質は消してしまう。

 そんな誘拐ビジネスは軌道に乗るかに見えるが、83年に民主制に移行したことで、計画が狂いだす。アルキメデスは、いま弱みがあるのは軍人だから、軍人の関係者を狙えという元同僚の助言に従う。だが、立場が弱くなった軍人にはどこからでも圧力がかかる。そこで、軍事政権時代に多くの市民を行方不明者にしてきた軍人が、逆に行方不明者探しに奔走し、アルキメデスを追いつめていくことになる。

 しかしこの映画の見所はそんな構成だけではない。さらに興味深いのが、主人公一家のイメージだ。日常の彼らの姿は、とても犯罪者には見えない。アルキメデスは家族想いの父親で、母親は働き者、誘拐に加担する長男アレハンドロはラグビーで活躍するスター選手、弟や妹も素直で、家事を手伝い、お互いに助け合う。

 だからこそ、シュールなドラマも生まれる。たとえば、アルキメデスが皿に持った肉料理を2階の奥の部屋まで運んでいく場面だ。疲れている母親をいたわり、息子や娘と短く言葉を交わす彼はよき父親のように見える。ところが、奥の部屋の扉を開けると、そこには若者が監禁され、恐怖のあまり錯乱しそうになっている。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲うウクライナの猛攻シーン 「ATACMSを使用」と情報筋
  • 4
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 5
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 8
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさ…
  • 9
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 6
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 7
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 8
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 9
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 10
    大麻は脳にどのような影響を及ぼすのか...? 高濃度の…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story