経済と命の比較がすべてを狂わせる
いいのだ。
それは政策のせいではない。コロナのせいだ。
経済がめちゃくちゃになっても、ああコロナだったから仕方ないね。
しかし、命がひとつでも失われると、特に有名人の命が失われると、命には代えられないという論理が台頭し、すべてのことが許される。非合理であっても、矛盾があっても、妥当でなくとも、そして、命を救うために実際には逆効果であっても、命を守るために行っていることはすべて許されるのだ。
しかし、政府にできることは逆である。
政府が何をしようとコロナに直接働きかけることはできない。それは科学であり、医学であり、そして人々自身の行動、対策である。
政府はそれを促すことしかできない。
そして、それを促す手段としては、日本政府は最弱の手段しか持っていない。強制力のまったくない緊急事態宣言。刀の入っていない鞘だけしかもっていない。鞘で十分国民を脅せると思っているらしいが、万が一、1回目は脅しを信じても、経験すれば、鞘の中に刀は納まっていないことを誰もが知ってしまう。
感染症がくるたび日本は衰退する
一方、経済に対しては、政府は直接働きかけることができる。経済活動を活発にしたり、カネを直接出したり、命に直接かかわらないから、合理的に判断でき、効率的な経済対策は本来は議論でき、実施できる可能性がある。論理的にはある。
ところが、命優先である。命は何ものにも代えがたい。そこで思考停止である。
そして、すべてはコロナのせいにできる。
しかし、政治が命をひとつでも犠牲にして経済を優先すると、政治は徹底的に非難される。役人は非難される。こんなつまらないコラムを書いている人間にも非難が殺到する。
そして、結果がどうなろうと、命を守ろうとしてがんばったんだからしょうがない。そして、失われた命に対しては涙をながして、後は忘れるのである。
政府の政策では、命は直接は救えない。科学と医学を側面的に支援することしかできない。
経済には直接働きかけることができる。
しかし、国民は、前者に全力を尽くし、後者はあきらめることを政治的には許容する。
政府にできないことを要求し、できることはさせない。
それが日本だ。
その結果が、現在の混乱である。
感染症は、21世紀、いや次の10年間に限っても、何度も来る。
そのたびに、日本は衰退していくだろう。
*この記事は「小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記」からの転載です
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