コラム

日本人学校バス襲撃 死亡した中国人女性を「美談」として語ることの危うさ

2024年07月06日(土)20時42分

英雄視で見えなくなるもの

仮に、案内係の女性が日本人親子をかばったのではなく「無抵抗のまま殺害されていた」としたら、日中両国の世論はどうなっていたか考えてみたい。

反日感情によって暴走した中国人が日本人学校の生徒を襲ったが、間違えて案内係の中国人を殺してしまった。日本人親子も負傷した――。

あまりに救いようがなく、極めて愚かな事件として記憶されることになるだろう。「日本人親子が負傷した」という部分は今以上に大きくクローズアップされ、日本国内の嫌中感情は取り返しの付かないほど増大していただろう。

中国人にとっても、反日感情が原因で自国民が殺されたと聞けば、なんてバカなんだと呆れたり、負傷した日本人親子に対して「申し訳ない」という負い目を抱いたりしてしまうかもしれない。

中国では「日本人をもっと殺すべき」などの過激な言葉を吐く極論主義者もネットを中心に一定数存在するが、今のところ社会の大勢ではないと考えられる。

中国人が無辜の日本人を傷つけたとなると、反日感情を煽ることへの疑問も生じかねないし、何より「我が国はすごい」という自尊心や愛国心にも水を差すことになる。

胡友平さんの死が変えたもの

つまり、案内係の女性が「単なる被害者」として殺害されていた場合、中国政府にとっては以下のような不都合が生じる。

・日本人の嫌中感情が高まり外交問題に発展する恐れ
・中国人が日本に対して負い目を感じ、愛国心が減退する恐れ
・反日感情が暴走した際の愚かしさや危険性に中国人自身が気づいてしまう恐れ

だが、犠牲となった案内係の女性が「己を顧みずに母子を救った」のであれば、こうした不都合はすべて解決する。

「中国で日本人学校のバスが襲撃された」という第一報を聞いたとき、ほとんどの日本人が中国に対して強い嫌悪感を抱いたはず。が、続報で胡友平さんという名の中国人女性が日本人親子をかばって亡くなったと聞き、今度は心揺さぶられる思いをしたのではないか。

彼女がとっさに取ったであろう自己犠牲的な行為を思い浮かべることで、中国への嫌悪や恐怖は大いに埋め合わせをされたに違いない。感情的には、いわば"チャラ"になった。

中国国内においても、胡友平さんを讃えることで「中国人民の善良さと勇敢さ」が大々的に宣伝されることとなり、あの事件は「中国人が日本人を襲撃した」のではなく「中国人が日本人を救ったのだ」という心地よいストーリーへと転換された。これなら、中国人としての自尊心はまったく傷つかない。

真相は分からない。

ただ、彼女の死を美談や英雄譚として片付けることは、何かを見えにくくしてしまうような気がしてならない。英雄を讃えている限り、事件の背景にある負の部分に目を向けたり、反省したりする意識が薄れるからだ。彼女は朝、家を出た時には人民の英雄になるつもりなど微塵もなかっただろうし、出来ることなら、平凡で良いからもっと生きたかったに違いない。

プロフィール

西谷 格

(にしたに・ただす)
ライター。1981年、神奈川県生まれ。早稲田大学社会科学部卒。地方紙「新潟日報」記者を経てフリーランスとして活動。2009年に上海に移住、2015年まで現地から中国の現状をレポートした。著書に『ルポ 中国「潜入バイト」日記』 (小学館新書)、『ルポ デジタルチャイナ体験記』(PHP新書)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

イスラエル軍、ヒズボラ司令官ら殺害 世界遺産都市に

ワールド

イスラエル、機会逃さずガザ戦争終結を=米国務長官

ワールド

アングル:マスク氏の100万ドル贈呈、法の限界に挑

ワールド

ガザ北部のポリオワクチン接種、イスラエル爆撃で延期
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:米大統領選 イスラエルリスク
特集:米大統領選 イスラエルリスク
2024年10月29日号(10/22発売)

イスラエル支持でカマラ・ハリスが失う「イスラム教徒票」が大統領選の勝負を分ける

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 2
    ヨルダン・ラジワ皇太子妃が出産後初めて公の場へ...夫フセイン皇太子と仲良くサッカー観戦
  • 3
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」ものはどれ?
  • 4
    リアリストが日本被団協のノーベル平和賞受賞に思う…
  • 5
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア…
  • 6
    逃げ場はゼロ...ロシア軍の演習場を襲うウクライナ「…
  • 7
    トルコの古代遺跡に「ペルセウス座流星群」が降り注ぐ
  • 8
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の…
  • 9
    中国経済が失速しても世界経済の底は抜けない
  • 10
    大谷とジャッジを擁する最強同士が激突するワールド…
  • 1
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 2
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の北朝鮮兵による「ブリヤート特別大隊」を待つ激戦地
  • 3
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア兵の正面に「竜の歯」 夜間に何者かが設置か(クルスク州)
  • 4
    韓国著作権団体、ノーベル賞受賞の韓江に教科書掲載料…
  • 5
    目撃された真っ白な「謎のキツネ」? 専門家も驚くそ…
  • 6
    ウクライナ兵捕虜を処刑し始めたロシア軍。怖がらせ…
  • 7
    逃げ場はゼロ...ロシア軍の演習場を襲うウクライナ「…
  • 8
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 9
    裁判沙汰になった300年前の沈没船、残骸発見→最新調…
  • 10
    北朝鮮を訪問したプーチン、金正恩の隣で「ものすご…
  • 1
    ベッツが語る大谷翔平の素顔「ショウは普通の男」「自由がないのは気の毒」「野球は超人的」
  • 2
    「地球が作り得る最大のハリケーン」が間もなくフロリダ上陸、「避難しなければ死ぬ」レベル
  • 3
    秋の夜長に...「紫金山・アトラス彗星」が8万年ぶりに大接近、肉眼でも観測可能
  • 4
    死亡リスクはロシア民族兵の4倍...ロシア軍に参加の…
  • 5
    大破した車の写真も...FPVドローンから逃げるロシア…
  • 6
    ウクライナに供与したF16がまた墜落?活躍する姿はど…
  • 7
    漫画、アニメの「次」のコンテンツは中国もうらやむ…
  • 8
    エジプト「叫ぶ女性ミイラ」の謎解明...最新技術が明…
  • 9
    ウクライナ軍、ドローンに続く「新兵器」と期待する…
  • 10
    韓国著作権団体、ノーベル賞受賞の韓江に教科書掲載料…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story