コラム

「惨めな日常を覆す」無差別殺傷犯とドストエフスキー戦争擁護論のアナロジー

2022年01月18日(火)15時45分

ドストエフスキーが『作家の日記』を著したのはロシア帝政末の動揺時代で、貴族や地主といった特権階級が幅を利かせる一方、庶民は困窮を極め、暗殺といったテロも横行していた。こうした時代背景のもとで登場したドストエフスキーの戦争擁護論がおよそ合理的理性とかけ離れた議論であることは疑いなく、抑圧によって生じる一種の情念であり、社会への怨嗟でさえある。

しかし、ドストエフスキーの叫びは当時トルコとの戦争に直面していたロシア民衆から熱狂的に支持された。そこには血を流すという非日常性が日常的に惨めな自分を解放するという倒錯があった。

空疎な優越感を求める者

ドストエフスキーの戦争擁護論は「映画のなかのジョーカーが平気で人をやっつけるのに憧れていた」と供述した京王線ジョーカーなど無差別殺傷犯の身勝手な言い分に通じるところがある。

彼らがドストエフスキーを読んでいたかは問題ではない(おそらく読んでいないだろうが)。ここで重要なことは、生命の危険にさらされた時、年収や学歴はもちろん法律や道徳にも何の意味もなくなり、それらがいかに脆いかを浮き彫りにすることで、自分の存在を確認しようとする精神性で両者は共通するということだ。

もちろん、ドストエフスキーの念頭にあった戦争と無差別殺傷には違いもある。その最大の違いは、戦争は一人では始められないが、無差別殺傷は一人でも始められることだ。

戦争を起こすことはできなくとも、一人で日常をひっくり返し、右往左往する人を眺めることは優越感を高め、あたかも自分がこの世の主権者のような倒錯を与えるのかもしれない。

いうまでもなく、それは現実には虚しい優越感で、自己満足に過ぎない。しかし、それは恐らく彼らには問題ではない。合理的理性と無縁の世界に生きる無差別殺傷犯は、現実とかけ離れた夢想にとりつかれたテロリストや陰謀論者と同じであり、その精神性は武器を見せびらかせながら「内戦」を叫ぶトランプ支持の極右過激派にも通じる。

だとすれば、相次ぐ無差別殺傷は、いわば「戦争ごっこ」を夢想する者が増殖していることを示す。その主張がたとえ身勝手なものであったとしても、手段にかかわらず日常を転換したいと望む者が増えていることこそ、無差別殺傷の連鎖が示す最大の社会的リスクといえるだろう。

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

※筆者の記事はこちら

プロフィール

六辻彰二

筆者は、国際政治学者。博士(国際関係)。1972年大阪府出身。アフリカを中心にグローバルな政治現象を幅広く研究。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学、日本大学などで教鞭をとる。著書に『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『世界の独裁者 現代最凶の20人』(幻冬舎)、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、共著に『グローバリゼーションの危機管理論』(芦書房)、『地球型社会の危機』(芦書房)、『国家のゆくえ』(芦書房)など。新著『日本の「水」が危ない』も近日発売

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

バンクーバーで祭りの群衆に車突っ込む、複数の死傷者

ワールド

イラン、米国との核協議継続へ 外相「極めて慎重」

ワールド

プーチン氏、ウクライナと前提条件なしで交渉の用意 

ワールド

ロシア、クルスク州の完全奪回表明 ウクライナは否定
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドローン攻撃」、逃げ惑う従業員たち...映像公開
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    足の爪に発見した「異変」、実は「癌」だった...怪我…
  • 9
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 10
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?.…
  • 6
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 7
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 10
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story