人間の内なる闇と光をホラー映画『来る』に見る

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN
<現在と過去、子供と大人、出産と死、ギャグとホラー。あらゆる対位が弁証法的に物語を紡ぐ>
子供の頃、夏の夜のテレビは心霊や超常現象を扱う特番をよく放送していた。でも最近はほとんど見ない。そもそも放送されていない。
もちろんデジタル技術などの発展で、かつてのように牧歌的な心霊写真などが意味を持ちづらくなったという事情はあるだろう。でもそれだけだろうか。メディアは社会の合わせ鏡。ならば超常的な現象に対する社会の関心が減少したのだろうか。
でも(後述するが)心霊への恐怖は本能的な領域でもあるはずだ。時代の影響はあまり受けないと思うのだけど。
いずれにせよ、子供の頃に心霊やUFOなど超常現象の番組を見続けた僕は、テレビの仕事を始めてから、3人の超能力者を被写体にしたドキュメンタリーを演出し、その後もこのジャンルへの取材を重ね、関連の本も何冊か刊行した。
その上での結論としては、心霊や超能力やUFOなど超常的な現象の98%は(99%かもしれない)、プラシーボ(偽薬)効果か錯誤かトリックだ。でも残り2%か1%、プラシーボや錯誤やトリックでは、どうしても説明できない現象が確かにある。それは何度も体験した。
心霊への恐れは、死への恐怖の反転でもあり、切ない願望でもある。その意味では宗教と重なる。
生き物の中で唯一、自らが死ぬことを知った人類は死後の世界を願い、魂は続くと思いたいのだ。だからこそ、この世界とは異質な存在への恐れと憧れは、全ての民族や文化や宗教を超えて、とても普遍的でもある。
CM出身の中島哲也が監督した『嫌われ松子の一生』は衝撃だった。スローモーションやCGなどを一切の抑制なくドラマに挿入し、MVのように音楽に合わせながら短くショットを重ねてゆく編集は、邦画においては画期的だったと思う。
そのタッチが、『来る』ではホラーと融合する。原作は澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』。水と油のような分離が、やがて攪拌されながら溶け合う。その融合は作品の随所にある。主人公の1人で、物語の端緒である田原秀樹(妻夫木聡)が夢と現実のはざまにいながら、子供時代の恐怖体験に回帰する瞬間の編集は見事だ。
「あれ」本体は最後まで正体を現さないが、平凡な幸せに浸っているはずの田原夫妻が内面では異界へとつながっていたとの経過と描写は、スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』でジャックがずっとタイプライターで書いていた原稿の「All work and no play makesJack a dull boy(仕事ばかりで遊ばないとジャックはばかになる)」がスクリーンいっぱいに拡大された瞬間に匹敵する知的な怖さだ。