コラム

弾劾請求より重要な韓国社会の深刻な亀裂

2019年06月13日(木)18時10分

もちろん、残忍な犯罪の容疑者に対する韓国世論の怒りはわかる。しかしながら、大統領府の公式ホームページに明らかに特定の犯罪の容疑者を指すとわかる形で、その極刑を求める人々の賛同が募られている状況は、お世辞にも美しいものとは言えない。それは一歩間違えれば人民裁判的な「吊し上げ」へと導かれかねないものであり、大きな危険性を孕んでいるという事が出来る。この様な極端な状況は韓国の請願制度のモデルとなったアメリカでは見られないものであり、今の韓国固有のものとなっている。

あるいはこの様な韓国の状況の背景にあるのは、朴槿惠弾劾以降に盛り上がった韓国における「直接民主主義」的な雰囲気かも知れない。「国民が選出した大統領を国民が弾劾した大韓民国だ。国民が選出した自治体長を国民が召喚し罷免することができる大韓民国だ。だが、国会議員だけは、国民が選出したにもかかわらず、国民が罷免することはできない。これは国民の命令だ」──国民が国会議員を直接罷免できる法律を求める請願の一節は、朴槿惠弾劾を求める運動の際に使われた標語「国民の命令だ」というフレーズを用いてこう述べている。なおこの請願は実際に、今年5月に「成立」し、大統領府はその必要性を主張する回答を行うこととなっている。

何より「民意が尊い」という素朴な信仰

「国民の命令だ」──そこにあるのは民衆の意志に対する素朴な信仰とも言えるものだろう。しかしながら、この一見美しい一文が限度を超えて暴走した時、民主主義は時に寛容性を失った「民衆による圧制」へと転化する。大統領府の公式のホームページ上に、特定の事件や人間を意味する形で、極刑や処罰を求める「請願」が乱立し、寛容性を失った左右両派が汚い言葉で罵り合い、自らへの支持の「数」を競い合う。そこに危うさを感じるのは筆者だけではないに違いない。

そして例えば考えてみよう。この様な状況を文在寅と同じ進歩派からの、最初の大統領であった金大中が見たらどう考えたであろうか。世論は時に、人に扇動され、政治的に利用されることもある。だからこそ政治家はこれを自らの利益の為に扇動し、刺激する事は厳に慎まねばならない。「あの容疑者は死刑にすべきだ」──反共主義全盛の中、時の政権から死刑判決を突きつけられた金大中が、この様な請願を見たら、彼は果たしてそれを座して見守っただろうか。隣国の民主主義の状況は、我々が民主主義にとっての寛容性の重要性を顧みる際にも参考になりそうだ。

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プロフィール

木村幹

1966年大阪府生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科教授。また、NPO法人汎太平洋フォーラム理事長。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。最新刊に『韓国愛憎-激変する隣国と私の30年』。他に『歴史認識はどう語られてきたか』、『平成時代の日韓関係』(共著)、『日韓歴史認識問題とは何か』(読売・吉野作造賞)、『韓国における「権威主義的」体制の成立』(サントリー学芸賞)、『朝鮮/韓国ナショナリズムと「小国」意識』(アジア・太平洋賞)、『高宗・閔妃』など。


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