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男たちが立ち上がる『ゴジラ-1.0』のご都合主義
しかし極めてご都合主義的な理由でで、GHQ本部や日本国の中枢が壊滅する危機が迫っているにも拘わらず、政府やGHQはゴジラに対して何もしない。それらに代わってゴジラに対応するのが、志願した「民間」の人間たちだ。彼らは一人一人が自分たちの家族や生活に責任を持っており、この責任意識がゴジラに立ち向かう動機となる。「民間」の活躍は、先述の軍国主義体制との決別にも関連している。古い社会は国家中心だったのに対して、新しい社会は民間が中心となるのだ。
映画を貫く「現場プロフェッショナルロマン主義」
この映画で語られている「国家」に対する「民間」の礼賛は、戦後日本の歴史を知っている現在の視点から逆算して創られた一種の起源神話だ。この神話は、戦後日本人のナショナリズムを喚起する、ある種の信念によって支えられている。それは、この社会を良くするのは政治的な運動などではなく、「一人一人が自分に与えられた役割を全うすること」であるという信念だ。以前筆者は、この信念を「現場プロフェッショナルロマン主義」というイデオロギーとして、批判的に取り上げたことがある。
確かに登場人物たちは、口々に国家の悪口を言う。しかし一方でそれは、ゴジラに対して国家に立ち向かわせるという方向には向かわない。彼らは国家の危機を自分たちで引き受ける。そして各々に出来ることを全うしようとする。
この意味で、日本でつくられたゴジラ映画としては前作にあたる庵野秀明監督『シン・ゴジラ』との共通点を見いだすこともできる。『シン・ゴジラ』は主に国家の官僚が活躍する話で、民間が活躍する『ゴジラ-1.0』と対になる作品として扱われているが、「国家の危機に際して、現場の一人一人が自分に与えられた役割を全うする」というテーマとしては共通性があるともいえる。『シン・ゴジラ』も、結局ゴジラを倒す計画を練るのは、通常であれば国家の意思決定には関われない下っ端官僚たちであり、それを実践するのは警察や消防、自衛隊といった現場の部隊だからだ。
ところで、この「現場プロフェッショナルロマン主義」は、国家と対立しているようでいて、結局は国家の価値観を追認する方向に働く。この映画でも、「現場」の努力でゴジラを何とかしようというやり方では、結局のところ戦前の日本のやり方との決別はできない。命が粗末に扱われた戦時中とは違い自分たちは一人の犠牲も出さないのだと演説する元技術士官の野田は、一方で対ゴジラ作戦に参加する者たちに死を覚悟させている(おとりとなる部隊などは、実際に犠牲者も出している)。対ゴジラ作戦に参加する民間人も、そのほとんどは旧軍出身者で固められている。彼らは旧日本軍の兵器を頼りにしており、重巡洋艦や幻の戦闘機に喝采するのだ。
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