平成の終わりに、東京から新潟まで歩くことにした
◆「昭和」が漂う新宿周辺
四谷駅の跨線橋
新宿区荒木町
JR・地下鉄の四谷駅を過ぎると、下町・都心部から、山の手と呼ばれる東京西部の台地に入っていく。下町と山の手の境の谷底を走る線路にかかる跨線橋の上に立つと、本来は歴史の古い東側の町並みの方が21世紀的で真新しく整っていて、西側の方が20世紀的で昭和の香りすら漂う。街の再開発・建て替えのタイミングが、ワンサイクルずれている感じだ。本来古い方の街が新しく、新しい方の街が古いというコントラストは、単純に面白い。
新宿
新宿の繁華街の猥雑さは、このエリアで過ごしていた30年前の高校時代と変わらない。今や伝統と風格のある街から現代的な街に生まれ変わりつつある銀座・日本橋と比べて、昭和の残滓を感じさせる街だ。大ガードをくぐって西口の高層ビル街を抜けると、町並みはいわゆる私鉄沿線的な住宅街に変貌していく。これからしばらくは、進めば進むほど、住宅街から郊外住宅地、里山から中山間地・農村地帯へと、風景は「田舎」になってゆくだろう。
新宿大ガード
ところで、この「田舎」という言葉は日本語独特ではないだろうか。英語のCountry sideには、「田舎者」的な揶揄を含んだニュアンスはなく、むしろ高額所得者が暮らす環境の良い地域のイメージがある。僕は、小学校の半ばでカナダから日本に帰国し、中学時代はイギリスで過ごしたのだが、狭い東京の中ですら、世田谷は田舎だとか、さらには新宿でも西落合あたりは田舎だとか、都会>田舎であるという、今で言うマウンティング的な価値観には最初は戸惑ったものだ。
◆「道供養碑」で道中の安全を祈願
西新宿
東京人の感覚では、環七を超えると郊外住宅地である。サラリーマン時代に地方都市での生活を体験し、今、信州の山奥に住んでいる僕は、すっかり「田舎慣れ」してその感覚を失ったが、やはりご多分に漏れず、かつては環七の向こうは地の果て扱いで馬鹿にしていた。今にして思えば、バカなのは自分の方なのだが・・・。
それにしても、日本人はなぜ、田舎を馬鹿にするのだろう。バブルの頃くらいから、その傾向は顕著になったように思う。現時点で、僕はそれに対してはっきりとした見解を示すことができない。この旅で、答えを見つけたいテーマの一つだ。
幡ヶ谷で裏道から甲州街道に復帰すると、「道供養碑」があった。江戸時代末期の1806年に建てられたもので、道祖神などとは違い、道路自体を供養し、報恩感謝の念を捧げて交通安全を祈る珍しい供養碑だという。僕はこの碑の存在をこの日初めて知ったが、裏道から甲州街道に出た瞬間にでくわしたのは、何かの導きだったのだろうか。旅の初日に道中の安全を祈ることができたのはラッキーであった。
環七の地下歩道=世田谷区大原
代田橋駅前
ちょうど日没時に、京王線の明大前駅に到着。出発時に予測していた到達点とぴったりである。次回は23区を出て、府中あたりまで進んでみたい。
今回のゴール地点、京王線・明大前駅にて(中央筆者)
今回歩いたコース=YAMAP活動日記
今回の行程:晴海─明大前(https://yamap.com/activities/3111979)
・歩行距離=20.31km
・歩行時間=7時間28分
・高低差=101m
・累積高上り/下り 845m/822m
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