岸田続投を占う日本政治における2つの「サバイバル指標」と2つの「起死回生策」
Can Kishida Hold On?
2017年、故安倍晋三が首相に返り咲いてから2期目の任期を務めていた時期、岸田は安倍の後継者として世論の期待を集めていた。
安倍政権で5年間外相を務めた後、彼はこの年の内閣改造では閣僚から外れ、自民党の「党三役」の1つ、政務調査会長(政調会長)に就任した。
当時メディアはこの党人事を岸田に安倍の後を継がせるための布石とみて、安倍から岸田への「禅譲」説を唱えた。もっとも当時は安倍一強時代で、安倍の続投は確実だった。
読売新聞は18年の総裁選について興味深いエピソードを伝えている。この年の総裁選で無投票での続投を目指す安倍は、岸田に出馬の意向があるかどうかを探るため、1月25日の夜に岸田を誘って一献を傾けたという。
このとき安倍は99年の総裁選の話を持ち出した。
98年に橋本内閣の退陣に伴い総裁・首相に就任した小渕恵三は、前総裁の任期満了により99年に実施された総裁選で18年の安倍のように圧勝での再選を目指していた。
そのため岸田と同じ系列の派閥のトップに就任したばかりの加藤紘一に後継の座までにおわせて出馬を断念するよう迫った。それでも加藤は出馬。結果、選挙に勝った小渕は加藤を徹底的に冷遇した。
18年の総裁選を控えていた安倍は岸田に「加藤さんは間違えたよね」と言ったという。「総裁選に出馬しなければ、間違いなく首相になれた」と。岸田は、「加藤さんは小渕さんがあんなに怒るとは思わなかった」と答えたという。
安倍に言われたことで断念したかどうかは不明だが、岸田は18年の総裁選には名乗りを上げず、加藤の轍を踏まなかった。その後は粛々と政調会長を務め、機が熟すのを待った。
安倍は3期目の任期をほぼ1年残して持病の悪化を理由に辞任。岸田は即座に総裁選出馬を決めた。
20年9月の総裁選では、党内の多くの派閥が当時の内閣官房長官・菅義偉支持に回り、岸田の勝ち目は薄かった。それでも岸田は、菅、石破茂元防衛相との三つ巴の戦いで少なくとも2位になり、次回に望みをつなごうとした。この戦略は成功した。
耐えて待つ戦略が奏功
その「次回」は21年9月にやってきた。
前年の総裁選の結果、党総裁(と首相)に就任していた菅は当初、当然のように続投に意欲を示した。ところが急速に党内の支持が崩れた結果、突然不出馬を表明した。
こうして21年の自民党総裁選は、岸田、河野太郎・行政・規制改革担当相(当時)、高市早苗・前総務相(同)、野田聖子・自民党幹事長代行(同)の4人の戦いになった。