最新記事
アート

『大吉原展』炎上とキャンセルカルチャー

A Tragedy of Cancel Culture

2024年4月12日(金)14時48分
北島 純(社会構想大学院大学教授)

美術展の学術顧問を務めた田中優子前法政大学総長も2021年に公刊した『遊廓と日本人』(講談社現代新書)で、遊郭の人権侵害を踏まえて「現代で吉原を論じることの問題」を詳細に検討している。今回のPR会社は、20年に国立歴史民俗博物館で展示され高い評価を得た『性差(ジェンダー)の日本史』を手がけた会社だ。

つまり主催者の問題意識は実は明確で、吉原における人権侵害という負の側面は当然に踏まえるべき前提であり、むしろ吉原を江戸の視点で「そのままに捉え直す」こと、「遊女」に差別的な視線を向けない姿勢に十分な配慮が払われていた。すなわち性的搾取があった事実を前提として、その先を見据えた企画だったのだ。ポスターのピンク色は性産業とは関係なく、遊郭で演出された舞台装置としての「桜」を表象するものだった。

本物の実力を持つが故

newsweekjp_20240412054033.jpg

高橋由一『花魁』(東京芸術大学)


にもかかわらず「芸大が人権感覚の欠如した美術展を企画した」と決め付ける評価が伝播して「炎上」したのは広報戦略の見誤りに加え、そうした前提の共有可能性が現代の日本社会で揺らいでいるからだろう。SNS時代、特にコロナ禍以降の言説は誇張と刺激を追い求め、共通了解を支える土台は脆弱化している。

もう1つにはキャンセルカルチャーの台頭がある。「特定の人物・団体の言動を問題視し、集中的な批判を浴びせて表舞台から排除しようとする動き」を指すが、狭義には「現代の基準から不適切だと思われる功績を過去にさかのぼって否定する」風潮をいう。

これが過剰になると、過去の作品あるいは作品の展示自体に現在の価値観を投影して断罪することになりかねない。いわば後出しジャンケンで、美術史の積み重ねの中で定まるべき芸術作品の客観的評価が損なわれる可能性がある。

今回の『大吉原展』が扱うのは江戸期の美術品が中心であり、現代芸術(モダンアート)のキュレーションとの違いにも留意が必要だ。主として存命中の作家を扱う現代美術展では、キュレーション自体が作家・観客・キュレーターの関係性を変容させる可能性を持つ。それゆえ社会的潮流と無縁ではいられない。

これに対して古典的芸術の場合、作者は既にこの世にいないから、作品に光を当てれば生まれる影について作者の弁明を聞くことは不可能だ。だからこそ美術館には「ありのままに展示」するという謙抑性が求められる。それは単なる美徳というだけでなく、古典的芸術の展示における客観性と誠実性を担保する。

『大吉原展』は図らずも遊女の性的搾取についてどこまでの説明が必要とされるかの線引きの曖昧化、人権侵害に関する共通了解の土台が脆弱化しているという現代日本の実相を照射したが、それはこの展覧会が本物の実力を持っているが故でもある。高橋由一作『花魁』やワズワース・アテネウム美術館所蔵『吉原の花』、大英博物館からの里帰り作品などは圧巻だ。遊女の生活がリアルに紹介され、遊郭の壮大な建築構造が手に取るように分かり、吉原を支えた浮世絵の重厚な出版文化を浮き彫りにしている。

5月19 日まで続く展示は必見だ。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

再送-インタビュー:トランプ関税で荷動きに懸念、荷

ビジネス

米国株式市場=S&P・ナスダック上昇、トランプ関税

ワールド

USTR、一部の国に対する一律関税案策定 20%下

ビジネス

米自動車販売、第1四半期は増加 トランプ関税控えS
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:引きこもるアメリカ
特集:引きこもるアメリカ
2025年4月 8日号(4/ 1発売)

トランプ外交で見捨てられ、ロシアの攻撃リスクにさらされるヨーロッパは日本にとって他人事なのか?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大はしゃぎ」する人に共通する点とは?
  • 2
    8日の予定が286日間に...「長すぎた宇宙旅行」から2人無事帰還
  • 3
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる唯一の方法
  • 4
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
  • 5
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「…
  • 6
    磯遊びでは「注意が必要」...6歳の少年が「思わぬ生…
  • 7
    「隠れたブラックホール」を見つける新手法、天文学…
  • 8
    【クイズ】アメリカの若者が「人生に求めるもの」ラ…
  • 9
    【クイズ】2025年に最も多くのお金を失った「億万長…
  • 10
    トランプが再定義するアメリカの役割...米中ロ「三極…
  • 1
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 2
    ロシア空軍基地へのドローン攻撃で、ウクライナが「最大の戦果」...巡航ミサイル96発を破壊
  • 3
    800年前のペルーのミイラに刻まれた精緻すぎるタトゥーが解明される...「現代技術では不可能」
  • 4
    ガムから有害物質が体内に取り込まれている...研究者…
  • 5
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    一体なぜ、子供の遺骨に「肉を削がれた痕」が?...中…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    「この巨大な線は何の影?」飛行機の窓から撮影され…
  • 10
    現地人は下層労働者、給料も7分の1以下...友好国ニジ…
  • 1
    中国戦闘機が「ほぼ垂直に墜落」する衝撃の瞬間...大爆発する機体の「背後」に映っていたのは?
  • 2
    「テスラ時代」の崩壊...欧州でシェア壊滅、アジアでも販売不振の納得理由
  • 3
    「さようなら、テスラ...」オーナーが次々に「売り飛ばす」理由とは?
  • 4
    「一夜にして死の川に」 ザンビアで、中国所有の鉱山…
  • 5
    テスラ失墜...再販価値暴落、下取り拒否...もはやス…
  • 6
    「今まで食べた中で1番おいしいステーキ...」ドジャ…
  • 7
    市販薬が一部の「がんの転移」を防ぐ可能性【最新研…
  • 8
    テスラ販売急減の衝撃...国別に見た「最も苦戦してい…
  • 9
    テスラの没落が止まらない...株価は暴落、業績も行き…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中