大学に「公式見解」は要らない...大学当局が「戦争に沈黙すべき」3つの理由とは?
A PROFESSOR’S WARNING
1つ目は、政策の世界と緊密につながりたいという願望が、教育機関が官僚や著名な市民を過度に敬うことにつながる危険だ。権力者に真実を語るという大学の任務を遂行する代わりに、学術機関が権力の最良の友となるために多くの時間と労力を費やすことになりかねない。
大学において、権力者や著名人に過剰に恭順する文化は、教員が個人として現行の政策に異議を唱え、官僚を公然と批判する意欲さえ失わせるかもしれない。染み付いた正統性に異議を唱えるどころか、大学がそれを補強するエコーチェンバーになるかもしれないのだ。
学長は大学を代弁できない
2つ目の危険は、特定の問題に深い関心を持つ寄付者が、自分の見解を教育機関に受け入れさせようとすることだ。厄介な質問を投げかけて真実に迫ろうとする研究を支援するのではなく、どのような質問をするべきか、どのような答えを正しいとするべきかについて、強い意見を持つ寄付者もいるかもしれない。
しかし、教育機関の指導者は、寄付者を満足させたいという願望ゆえに、寄付者の好みと対立する見解を持つ教員や学生を疎外してはならない。ここでもまた、カルベン報告書の原則が、教育機関がこうした誘惑にあらがう手助けをする。
政治的にも社会的にも激動の時代に大学を運営する人々に、私は心から敬意を表し同情する。彼らは常に、大学の地位と威信のどちらを優先するかという判断を迫られている。
学術機関のトップにも、物議を醸す問題について個人の見解は当然あるし、論争が起きれば意見を述べたいという欲求が湧き起こる。
ただし、そうした欲求は我慢しなければならない。意見が二分される問題ではなおさら、学部長は学部を代弁することはできず、学長は大学全体を代弁することはできないのだ。
皮肉なことに、カルベン報告書の原則にさらに忠実になれば、学長や学部長はニュースで物議を醸している話題にコメントするという重圧から解放される。
そして本来の仕事、つまり、学生や教員が可能な限り正直に、制約を受けずに、敬意を持って考え、書き、話すことができる環境を育むことに力を注ぎやすくなる。
そのようにして大学は、社会をより良くするための知識の生産者という独自の役割を守り続ける。