【人質家族 独占手記】「あの時、私と一緒に過ごそうと言っていたら...」ハマスのテロに遭遇したアメリカ人家族の苦悩
I Can’t Celebrate
遺体らしき痕跡もなく、携帯電話もパスポートもなくなっていた。彼らが拉致されて、生きているとしてもガザ地区で人質になっていることを私たちは理解した。
夜ふと目が覚めて、姉のさまざまな姿を思い出した。コーヒーを飲む姉、2人で子供時代の思い出を語り合ったこと。庭に座ってたわいもない噂話を交えながら、困難なときも互いに支え合ったこと。
もしあのとき......そう考えると私は胃がねじ切れそうになった。もし私が、土曜日の午後にナハル・オズへ迎えに行くと約束するのではなく、北部の私のキブツで一緒に過ごそうと強く言っていたら。そうしたら姉たちは無事だっただろうか。
暖かくしているだろうか。食べ物はあるだろうか。テロリストは彼らを傷つけていないだろうか。彼らは生きているのだろうか。
およそ2週間の最悪の地獄が過ぎ、ジュディスとナタリーは解放された。帰ってきた。体は無事だった。私は2人を強く強く抱き締めた。そのまま放したくないと思った。
ようやく深呼吸をすることができて、私は涙がこぼれた。安堵の涙だ。感謝の涙だ。しかし同時に、苦悩の涙でもある。ガザで今も人質になっている人々を思う苦悩、イスラエルや世界中にいる彼らの家族の不安を思う苦悩だ。
今なお罪のない人が230人以上も冷酷なテロ集団の人質になっていることを知りながら、姉と姪の帰還を心から祝うことなどできない。誰かの祖母や祖父、母親や父親、負傷した若い男女、家族全員、怯える子供や幼児。私は毎晩、目を閉じるたびに、生後9カ月の赤毛の赤ちゃんの顔が浮かんでくる。
戦争は人生を打ち砕く
私たちの親族もまだ7人がガザにいる。最悪の悪夢の中にしか存在しないと思っていた怪物の、その腹の中にいるのだ。大人だけでなく、3歳と8歳のきょうだいや12歳の女の子もいる。そして、3人の親族が殺された。
ジュディスとナタリーは一連の出来事は何も知らず、解放されたときは打ちのめされ、恐怖におののいていた。私たち親族は皆、残りの人質を取り戻すために必要なことは何でもする決意だ。