「希望を捨てるわけにはいかなかった」冤罪で38年も服役...無罪を勝ち取った男の激白
I Was Falsely Imprisoned
今年3月1日、ロサンゼルス郡高裁で無罪が確定した瞬間のヘイスティングス 代表撮影ーAP/AFLO
<終身刑でも希望を捨てずに真実を求め続け、ついに無罪を勝ち取った黒人男性が本誌に激白>
本当に逮捕されたときは目の前が真っ暗になった。
事の始まりは1983年の6月19日。私はロサンゼルスにいた。住んでいたのは東部のピッツバーグだが、友人に誘われたので、カリフォルニアで一緒に週末を過ごすことにした。ビーチを散歩して、食事して、パーティーにも行った。素敵な晩だったよ。
そこへ友人から電話があって、私の車が盗まれたらしいと言われた。気になるからピッツバーグへ電話しようと思った。でも、当時の長距離電話料金はえらく高かった。
そしたら別の友人が、テレフォンカードをくれた。それで、誰のものとも知らずに6月21日以降、そいつで何度かピッツバーグに電話した。
家に戻ると、母親が心配そうに「あんた、うちへ電話するのに暗証番号付きカードを使ったかい?」と聞いてきた。使ったと答えたら、「やめな。殺人課の刑事が来て、そのカードを使った人を捜していると言ったよ」って。あとで知ったんだが、そのカードは6月19日にロサンゼルス近郊で起きた性的暴行・強盗殺人の被害者のものだった。
母に言われて、すぐにやめた。でも手遅れだった。翌年の10月、私は殺人や強盗、殺人未遂の容疑で逮捕された。
公判は86年に始まった。でも法廷に提出された証拠の大半は状況証拠で、物的証拠は何もなかった。警察の捜査はずさんで、担当の検事は早く有罪の評決がほしいだけ。私にはそう思えた。結局、88年に有罪評決が出て、仮釈放なしの終身刑を言い渡された。
決め手はDNA鑑定
刑務所ではひたすら祈った。希望を捨てるわけにはいかなかった。控訴したかったが、うまくいかない。法医学的分析が確立され始めた90年代には、被害者に付着していた体液のDNA鑑定も求めた。でも、廃棄済みだと言われた。
悔しくて、外部の団体に支援を求めた。それでポーラ・ミッチェルと出会った。彼女は当時、ロヨラ大学法科大学院で「無実の人のためのプロジェクト」を率いていた。
彼女たち、そしてカリフォルニア州立大学ロサンゼルス校の法医学研究所が動き始めると、廃棄されたはずのDNA検体が出てきた。これを第三者機関に送って調べてもらったら、絶対に私のDNAではないという判定が出た。
ポーラが電話で、そのニュースを教えてくれたけれど、最初はちょっと耳を疑った。こんなに長く待たされたのに、あまりに速い展開だった。夢じゃないか、本当に自由を取り戻すチャンスが来たのかって思った。何度も何度も裏切られてきたから。