犠牲になっても、今なおロシアを美化してすがる住民たち──言語、宗教、経済...ウクライナ東部の複雑な背景とは
LIVING UNDER SIEGE
ドネツク州スラビャンスクのアパートで仮眠を取った私たちは翌朝、雪と氷に覆われた道を走った。かつての主戦場だったドネツ川の橋は崩落したままで、仮設の橋を渡ることになった。前日の最低気温は氷点下14度。川の表面は凍りついている。
昨年10月にウクライナ軍が奪還した街、リマンに入った。砲撃で屋根が吹き飛んだ家やガソリンスタンドが目に付く。市街戦の最中は連日60人から100人のウクライナ兵が命を落としたという。車の音を聞きつけて、地下に避難していた住民たちが出てきた。ゲナディーが1人の少女を見つけて歩み寄った。
「こっちに来てごらん。サンタクロースのおじさんがいるよ」
体重150キロの牧師に連れられて、小柄なナースチャ・カローケナ(6)がピックアップトラックの所に歩いていく。防弾ベストとヘルメット姿のアレキサンドルが箱を選んで手渡した。ナースチャは「スパシーバ(ありがとう)」と言ってほほ笑んだ。
彼女について集合住宅の地下へ下りていった。通路の一番奥、右に3回曲がったところにナースチャの家族がいた。避難生活が長期化しているため、所狭しと家財道具が置いてある。ベッドにテレビ、奥には簡素なキッチンもあった。
「何をもらったの?」と父のコースチャ(39)が声をかける。ナースチャはプレゼントを取り出すのに懸命だ。祖母のナージャ(68)は昼食用の芋の皮をむきながら孫の様子を見守っている。
戦前2万2000人ほどだったリマンの人口は現在約1万人。そのうち子供は700人ほどだという。箱の中から4本セットのペンを見つけて、じっと眺めるナースチャ。ここから十数キロ東にロシア軍の支配地域があり、砲撃は続いている。学校は閉鎖されたままで、このペンを使って授業を受けることはかなわない。
親ロシア派住民が多く残る街
後にウクライナ軍が撤退を表明する、ソレダールを含む東部戦線。昨年9月のハルキウ州解放によって勢いづくかと思われたウクライナの進軍は足踏みし、一部で後退すら余儀なくされている。なぜなのか。
理由の1つとして指摘されているのが親ロシア派住民の存在だ。私たちは次に訪れた街で、彼らの思いを間近で受け止めることになった。