「上海協力機構」を西側諸国は冷笑するが、実は着々と「中国的・同盟」は拡大中
China’s Central Asia Focus
中央アジアにおける中国の究極の目標は、新疆ウイグル自治区の安定化だった。新疆での暴力には国外の勢力が国境を越えて関係していた。どの程度宗教や民族的アイデンティティーを動機としているかは不明だったが、イスラム教過激派の関与は新疆でも中国でも目立った。
90年代後半を通じて中央アジアや中国で大規模な暴力が発生し、これに対処するため、中国は中央アジア各国政府の協力と支援を必要とした。その結果、強固かつロシアへの配慮を要する安全保障協力組織が出来上がった。
だが長期的にはこれらの問題の解決策は常に経済的なものになる、と中国は分析した。ソ連崩壊は、新疆には特に、閉ざされていた国境が突然開かれるというメリットをもたらし、当時の中国指導部はこの機に乗じるよう奨励した。
習もこれを踏襲し、13年9月に大規模な外交構想「一帯一路」を打ち出す初の演説の場にカザフスタンを選んだ。
経済協力だけでは不十分
ただし、ソフトな戦略だけでなくハードな外交戦略も引き続き必要だった。中国はウイグル人の暴力的な脅威に対し、中央アジア各国の協力を取り付けて強硬に管理してきたが、リスクは続いていた。
09年に新疆で起きた暴動は騒乱に発展。13年に天安門広場でウイグル人によるとみられる自爆テロが発生し、14年には習の新疆視察に合わせてウルムチ市内の駅で爆発事件が起きた。これらを受けて、ただでさえ厳しかった締め付けがさらに強くなり、中国は地域の安全保障上の脅威をより可視化しようとした。
こうした流れのなかで、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタンに挟まれて東側で中国に接する山岳地帯「ワハン回廊」のタジキスタン領内に、中国人民武装警察部隊(武警)が常駐するようになった。これは中国が初めて国外に設けた軍事拠点と思われる。その後、17年にアフリカ東部のジブチに海軍基地を設置し、現在もさらに他の地域で軍事拠点を確保しようと機会をうかがっている。
タジキスタンに武警の拠点を置いた正確な時期は、定かではない。筆者は12年には現地で噂を耳にするようになったが、中国兵士の巡回にすぎないのか、何か別のものがあるのかは分からなかった。
それでも10年代半ばに噂が広まり始めると、ロシアが動揺したことは確かだ。その怒りの矛先は、公には中国ではなくタジキスタンに向けられた。旧ソ連の7カ国で構成する集団安全保障条約機構(CSTO)の一員でありながら、他の加盟国に知らせずに外国の軍事拠点を受け入れたことに腹を立てたのだ。