受験勉強のために、思春期に本を読まない日本の中高生
1995年公開のスタジオジブリ『耳をすませば』を観た人は多いかと思う。主人公の少女(中3)が思いを寄せる少年は、高校には行かずにバイオリン職人になると決め、夢に向かって着々と進んでいく。それに触発され、少女は物語を書こうと決意する。受験勉強はそっちのけで、成績は急降下し家族に心配されるが、粗削りながら一つの作品を仕上げるに至る。
その結果、自分の不勉強を自覚し「高校に行ってもっと勉強せねば」と、内発的な動機付けが得られることになった。無謀な試しだが、15歳の少女にとって非常に意義があったことになる。
多感な思春期に多くの書物に触れ、志あるならば「試し」をやってみる時間があるといい。だが日本は受験があるので、なかなかそうはいかない。中高生が手に取る書物は、教科書や受験参考書だけだ。
ちなみに学力による高校受験は、どの国にもある普遍的なものではない。高校の校長に「入学者の決定に際して学力を考慮するか」と問うと、<図2>のような回答分布になる。
日本では「常に考慮する」が大半だが、アメリカは55%、イギリスは77%、お隣の韓国も33%の高校が「考慮しない」と答えている。学力よりも居住地域、これまでの成績や社会活動等の状況、また学校の教育方針に当人や保護者が賛同するか、という点を考慮(重視)するわけだ。こういうデータを見ると、入試の在り方を変え、思春期の生徒の活動の幅を広げる余地はあるかと思う。
上記の少女の頃(90年代半ば)と違って、今は「試し」の成果を発信しフィードバックを得るためのツール(SNS等)も備わっている。その結果、勉学への内発的な動機付けが得られたり、将来展望が明確になったりすることもある。
学力偏重の入試は、型にはまった従順な労働力を育てる「隠れたカリキュラム」として機能する(長時間、根気よく机に向かわせる......)。だが個性や創造性が求められる令和の時代では、それは逆に機能する。昭和型の慣行を、いつまでも惰性で続けていてはならない。