ピンポン外交50周年 当時15歳の女子選手が目にした中国の今昔と舞台裏
PING PONG DAYS IN CHINA
貧しくて世界から孤立していた71年の中国では、文化大革命が進行していた。「あのとき中国人の通訳やガイドは『今は女性も外に出て働いている。そのための保育施設もある。社会はいい方向に向かっている』と言っていた」
アメリカの卓球選手は、中国の内情を知るための西側世界の「目」となった。帰国すると、取材攻勢と講演旅行が待ち受けていた。「飛行機を降りたら、すぐ記者会見場に連れていかれた。何百台ものカメラが待ち構えていた。『これから記者会見に出てもらえます?』などとは聞かれもせず、ただ言われたとおりやりなさいという感じだった」と、ボチェンスキーは言う。
ニュース番組などに出演するため、ボチェンスキーはアメリカ各地を回った。翌年、アメリカ側が返礼として中国の卓球チームを2週間招いたときには、交流試合に参加するためさらに忙しくなった。
中国チームの訪米時のハイライトは、米中両国代表がホワイトハウスにリチャード・ニクソン大統領を訪問したことだ。ニクソンは前年に米卓球代表が訪中したときから、中国との交渉の糸口を探っていた。
ニクソンが掲げた長期計画
米卓球代表が中国を訪れていた71年4月13日、ニクソンはヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障問題担当)らとの会話記録の中で、対中関係について長期的な計画を持っていると語っている。
「中国への対応には、いくつかの長期的な理由がある。実に重要なものだ。それが現在の出来事につながっている。ピンポンだ」と、ニクソンは語っている。「ここで可能な限りポイントを稼ぎたいが、(卓球を)利用しているように見えるのは避けたい。ここには(対中関係よりも)はるかに重要な駆け引きも絡んでいる。ソ連のことだ。卓球代表の訪中はソ連を激怒させる。(だが)中国との駆け引きも、もちろん重要だ」
当時、米中両国が連絡を取り合う手段はほとんどなかった。しかし会話記録の中でニクソンは、中国が世界各地で西側との関係改善に向けた「小さなサインをたくさん出している」と語っている。「雪解けは近いと、ずっと前からにらんでいた」
米中の国交正常化が実現したのは79年。ニクソンが退任した後だった。