ミャンマー政変が浮き彫りにした米外交の凋落
Who Lost Myanmar?
バイデンの外交チームは、こうしたミャンマーの状況をよく理解している。その多くは、10年前にオバマ/クリントンチームの一員だったからだ。ジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は、2011年のクリントンの副首席補佐官だったし、カート・キャンベル国家安全保障委員会(NSC)インド太平洋調整官は、当時、東アジア・太平洋担当の国務次官補だった。
ただ、今回はアメリカ自身が、ドナルド・トランプ前大統領による2カ月半にわたる「不正選挙」の主張と、その支持者による民主主義転覆の試みを経験した直後だった。
ミャンマーでも昨年11月に総選挙が行われ、スーチー率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、国軍系の野党は惨敗。国軍は証拠もなく不正選挙を主張していた。
国軍にとって、スーチーの人気は慢性的な脅威だった。それを知っていたアメリカの外交チームは10年前、制裁撤廃と引き換えに、スーチーが自由かつ公正な選挙に参加できるようにした。
民政移管したといっても、当時のテインセイン大統領は元軍人で、国軍トップの言いなりだった。クリントンは、そんな体制と良好な関係を維持するため(スーチー自身もそれを望んだとされる)、戦争犯罪について国連による調査を求めることを断念し、莫大な経済援助を申し出た。
アメリカがミャンマーに関与するタイミングと範囲は、ある意味でスーチー次第だった。2011年にBBCのインタビューで譲歩し過ぎではないかと聞かれたクリントンは、米政府はスーチーの同意を踏まえて動いており、「彼女によると(民主的)政治プロセスの有効化が重要だ」と言った。
オバマ政権内では制裁緩和をめぐり激しい議論もあったが、スーチーありきの状況は何年も続いた。2016年にオバマは、ホワイトハウスでスーチーと会談した際に制裁解除を明言した。
ただし、アメリカが制裁解除の前提としていた民主化に向けた進展は、まだほとんどなかった。2015年の総選挙でNLDが大勝した後も、連邦議会の議席の25%は「軍人枠」とされていた。さらに、軍事政権が定めた憲法の規定により、外国籍の配偶者と子供がいるスーチーは大統領に就くことができなかった。
米外交4年のブランク
ジェン・サキ大統領報道官によれば、バイデン政権は制裁解除の見直しを検討しており、新たな制裁の可能性も示唆している。一方で、複数の報道によると米政権は当初、ミャンマーの軍事的な政権奪取をクーデターと呼ぶことさえ躊躇していた。
従来と同じやり方が通用するかは、定かではない。欧米諸国は数十年間、制裁を続けてきたが、ミャンマーの民主化は遅々として進んでいない。