なぜ私たちは未来予想が好きなのか?
2019年の予測:家族・ジェンダーから日本語のローマ字化まで
それからちょうど100年後の今、2019年12月、論壇誌『アステイオン』が「百年後の日本」へのオマージュともいえる企画「可能性としての未来――100年後の日本」を特集した。
やはり今の話題や世相が反映されている。家族やジェンダー(池上裕子による寄稿「ミソジニーを超えた文化へ」、トイアンナによる「ぜいたくは敵だから、結婚しません」)、情報化の未来(池内恵「一〇〇年後に記された『長い二一世紀』の歴史」、小川さやか「世界が存在する偶然を」)、地方都市(江頭進「存続意義を失う地方都市」、砂原庸介「悠久の都道府県?」)、働き方(玄田有史「希望、だって(笑)。」)などを、テーマとして何人もが挙げている。
そして100年前の「百年後の日本」と同じく、日本語のローマ字化について言及されたものもある(佐藤卓己「日本語表記がローマ字になっている」)。
また、「百年後の日本」同様に、「100年後とは長い」「わからない」「そういうことは古い」と指摘しているものもあり、例を挙げれば、高階秀爾「百年後とは長過ぎる」、中西輝政「三〇年後くらいならともかく」、北岡伸一「西太平洋連邦を目指して」、渡辺靖「それでも私たちは愚直に未来を予測し続ける」などがある。
確かに100年後を予測するのは長過ぎて難しいが、予測するだけの価値はあるだろう。飛行機で富士山を登るようにはならなかったし、北極と南極を日帰り旅行できるようにもならなかった。また、首都が東京から移ることもなかった。しかし、飛行機は太平洋横断できるようになり、女性が政治家や学者になることはできるようになり、うなぎの蒲焼も残り続けた。
「百年後の日本」は、46年後の1966年に『予言する日本人――明治人のえがいた日本の未来』(竹内書店)として復刻されている。そのときの「編集後記」に次のように書かれている。
未来社会を考察する意義は、人間の欲望を最大限に解放し(常識的予想)、これを建設的な人間的目的に誘導する道を探求する(科学的予想)ところにある。未来社会を語ることは、現在における自らの選択に責任をとることである。
今その時代を生きてきた私たちも、直近十数年に起こったリーマンショック、東日本大震災の発生、また天皇陛下の生前退位から令和の時代のスタートを予想することはできなかった。先人たちが100年後に何を託し、私たちは何を引き継げているか。
私たちが100年後を予想することは、いい社会や未来をつくるために、いま自分がどのように生きるかを謙虚に考えるいい機会となる。未来を予想することは今の技術では当面不可能だが、100年後はもしかしたら可能になっているかもしれない。そのときは確実に未来予測は廃れているだろうが、それができなくなるのは、それはそれで寂しい時代かもしれない。
■お知らせ■
『アステイオン91』刊行記念イベント
田所昌幸(慶應義塾大学法学部教授・『アステイオン』編集委員長)+江頭進(小樽商科大学商学部教授)
政治・経済・社会を覆う〈短期志向〉、〈近視眼的思考〉をいかに乗り越えるか?「100年」という時間を通して眺めることで、過去・現在・未来を再定位し、いま社会科学にできることを語りつくす!
日時:2019年12月19日(木)19:00~20:30 (開場18:30)
場所:八重洲ブックセンター本店 8階ギャラリー
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『アステイオン91』
特集「可能性としての未来――100年後の日本」
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
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