【全文公開】韓国は長年「最も遠い国」だった(映画監督ヤン ヨンヒ)
KOREA, MY OTHER “HOMELAND”
1959年末から「帰国事業」が始まった。これは戦後日本に残った在日コリアンに対して、北朝鮮を「地上の楽園」とうたい移住させた政治的移民プロジェクトである。当時、日本社会の民族差別に苦しんでいた多くの在日コリアンは、北朝鮮に行けば無償の教育、医療、住宅が保障され幸せに暮らせるという強烈なプロパガンダを信じた。ほとんどの日本のメディアが朝鮮人に対する棄民政策を、「民族の大移動」と美化したからである。
NYで初めて出会った「韓国」
同時期、韓国政府も在日コリアンの受け入れを拒否していたのに対し、朝鮮総連は北朝鮮支持者拡大のためのプロパガンダを推し進めた。59〜84年の間、日朝両国の赤十字社による共同プロジェクトとして実行された「帰国事業」で、9万3340人(※注)の在日コリアンが日本から北朝鮮へ移住した。
※注:日本国籍者約7000人含む
当時、14、16、18歳だった私の3人の兄たちも北朝鮮に送られた。息子たちを「祖国」にささげた後、両親は朝鮮総連の熱血活動家になった。「祖国」から送られた痩せ細った息子たちの写真を見た母は、取りつかれたように仕送りを始めた。私の目に両親は「息子たちを人質に取られた」忠臣に映った。「北」の体制を擁護する父と、兄たちを奪われたと嫌悪感を示す私との間でけんかが絶えなくなった。
日本で生まれ育ちながら「朝鮮」籍を有するため海外への渡航が不便だったが、両親は私が国籍を変えることを許さなかった。両親の生き方を否定することだと言うのだ。私は家族のつながりを重んじる儒教的価値観を恨みながら、「難民パスポート」のような再入国許可証を持って、中国、タイ、バングラデシュなどを取材しビデオジャーナリストとして活動を始めた。国外に出るたび、ビザの取得が大変だった。
同時に北朝鮮にいる家族を訪問し、ビデオカメラで撮影を続けた。家族の物語をドキュメンタリー映画にしたいと考えながら平壌と大阪で撮影を重ねた。両親と自分に対して率直な作品を作ることは、平壌にいる家族の安全を脅かしかねないというリスクを伴った。映像制作者としての「覚悟」を決めるには自分は未熟過ぎた。そのため父の反対を押し切って、映画について学ぼうとニューヨークへ向かった。
両親との確執を引きずったまま97年に30代半ばでニューヨークに飛び込んだ私は、さまざまなエスニックコミュニティーを取材し、2000年からニュースクール大学大学院メディア研究科で学んだ。映画について学ぶ韓国からの留学生たちと急速に親しくなった。