最新記事

北朝鮮

金正男暗殺実行犯の女性被告1人を釈放・帰国 マレーシア、マハティール流の高度な政治判断か

2019年3月11日(月)19時36分
大塚智彦(PanAsiaNews)

会見で「うれしい」とアイシャさん

ジャカルタ郊外のセラン市にあるアイシャさんの実家には釈放のニュースを聞きつけた地元のマスコミや近所の人たちが詰めかけ、親族が対応に忙しくしているという。

親族によるとアイシャさんの両親はインドネシア外務省経由で弁護士からの連絡をもらい、11日早朝にはジャカルタに向かったといわれ、事前に釈放の情報が伝えられていたとの見方が強まっている。

クアラルンプールからの報道によると、釈放後に記者会見したアイシャさんは「今日自由になれるとは予想していなかった。とてもうれしい。早く家族に会いたい」と笑顔で喜びを語った。

その後アイシャさんはインドネシア側が用意した特別機で11日午後6時前にジャカルタに帰国。マレーシアまで迎えに行ったヤソナ・ラオリ法務人権大臣らと再び会見し、「とにかくうれしい。マレーシア側の対応は問題なかった」などと喜びを表した。その後、外務省で両親と対面、ルトノ・マルスディ外務大臣も参列して帰還式が行われる。

釈放の背景にマハティール流外交術か

マレーシアは暗殺事件直後から北朝鮮国籍とみられる男性4人が事件に関与したとの見方を強め、国際刑事警察機構(インターポール)を通じて国際手配しているものの、事件直後にマレーシアを出国後、北朝鮮に帰国したとみられており消息はつかめていない。

こうしたなか、実行犯として金正男氏の顔面にVXガスを塗り付けたアイシャさん、ドアン被告だけが逮捕、殺人罪での起訴となり、「2女性被告はスケープゴートだ」「暗殺の黒幕を裁くことなく、2人だけを裁くことは公正でない」などという弁護団の主張や国際世論の中で公判が続いていた。

マレーシアでは殺人罪は最高で死刑が適用される重大犯罪で、裁判は高裁から始まっていた。

両被告は公判を通じて「金正男氏ということも、VXガスであることも知らされずに液体を指示された男性の顔面に塗っただけで、テレビのドッキリ番組だと信じていた」との主張を繰り返していた。

インドネシア、ベトナム政府からはマレーシアに対してたびたび釈放を求める要請が出されたが、マレーシア政府は「司法の独立」から容易に要請を受け入れることはなかった。

しかし今回突然、アイシャさんの釈放が決まった背景には、2018年5月にマレーシア史上初の政権交代を実現して政権に返り咲いたマハティール首相による、外交戦術があるとみられている。

金正男氏の暗殺事件のために一時国交断絶寸前まで悪化した北朝鮮との関係修復打ち出しているマハティール政権は、北朝鮮とインドネシアの両方の「顔を立てる」方法を選択したといえる。

それは裁判が進展して両被告が「有罪」となればインドネシア、ベトナムとの関係に影響することは必至であり、一方「無罪」になれば事件の真相究明は北朝鮮へと焦点があたり関係修復が難しくなることも予想された。

今回のアイシャ被告の釈放は、こうした高度の政治的判断で、裁判での判決を回避して「起訴取り下げでの釈放」という方法を選択した、マハティール流の外交術の結果ではないかとの見方が出ている。


otsuka-profile.jpg[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:フィリピンの「ごみゼロ」宣言、達成は非正

ワールド

イスラエル政府、ガザ停戦合意を正式承認 19日発効

ビジネス

米国株式市場=反発、トランプ氏就任控え 半導体株が

ワールド

ロシア・イラン大統領、戦略条約締結 20年協定で防
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ新政権ガイド
特集:トランプ新政権ガイド
2025年1月21日号(1/15発売)

1月20日の就任式を目前に「爆弾」を連続投下。トランプ新政権の外交・内政と日本経済への影響は?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼いでいるプロゲーマーが語る「eスポーツのリアル」
  • 2
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べている」のは、どの地域に住む人?
  • 3
    「搭乗券を見せてください」飛行機に侵入した「まさかの密航者」をCAが撮影...追い出すまでの攻防にSNS爆笑
  • 4
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 5
    【クイズ】次のうち、和製英語「ではない」のはどれ…
  • 6
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者…
  • 7
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 8
    「ウクライナに残りたい...」捕虜となった北朝鮮兵が…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    雪の中、服を脱ぎ捨て、丸見えに...ブラジルの歌姫、…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 3
    睡眠時間60分の差で、脳の老化速度は2倍! カギは「最初の90分」...快眠の「7つのコツ」とは?
  • 4
    メーガン妃のNetflix新番組「ウィズ・ラブ、メーガン…
  • 5
    轟音に次ぐ轟音...ロシア国内の化学工場を夜間に襲う…
  • 6
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 7
    「拷問に近いことも...」獲得賞金は10億円、最も稼い…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    【クイズ】世界で1番マイクロプラスチックを「食べて…
  • 10
    ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で再注目...軍艦島の…
  • 1
    ティーバッグから有害物質が放出されている...研究者が警告【最新研究】
  • 2
    大腸がんの原因になる食品とは?...がん治療に革命をもたらす可能性も【最新研究】
  • 3
    体の筋肉量が落ちにくくなる3つの条件は?...和田秀樹医師に聞く「老けない」最強の食事法
  • 4
    夜空を切り裂いた「爆発の閃光」...「ロシア北方艦隊…
  • 5
    インスタント食品が招く「静かな健康危機」...研究が…
  • 6
    ロシア軍は戦死した北朝鮮兵の「顔を焼いている」──…
  • 7
    TBS日曜劇場が描かなかった坑夫生活...東京ドーム1.3…
  • 8
    「涙止まらん...」トリミングの結果、何の動物か分か…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    「戦死証明書」を渡され...ロシアで戦死した北朝鮮兵…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中