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映画映画『ボヘミアン・ラプソディ』が語らなかったフレディ・マーキュリーの悲劇
The Freddie Mercury story that goes untold in ‘Bohemian Rhapsody’
フレディ・マーキュリーは単なるロックの神であるだけでなく、性的少数者にとっての偶像でもあった Queen - Bohemian Rhapsody (Official Video)/YouTube
<希代のボーカリストがどれほど社会から、そして人から疎外され罰せられていたか、観客はそれを知らされるべきだった>
今年のアカデミー賞で注目を集めたのが、伝説のバンド「クイーン」のリードボーカルだったフレディ・マーキュリーの半生を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』が作品賞を取れるかどうかだった(受賞したのは『グリーンブック』だったが)。
『ボヘミアン・ラプソディ』は賛否両論分かれる映画だ。同性愛への嫌悪や偏見が見られるという批判がつきまとい、監督のブライアン・シンガーは、過去の強姦と性的虐待で告発された。
だが同性愛の歴史研究者として、私が取り上げたいのは別の視点だ。この映画から明らかに抜け落ちている悲劇の歴史だ。
マーキュリーは、1980年代にHIV陽性と診断された多くの男女と同様に、病だけでなく政府の失策、そして世間からの軽蔑の犠牲となった。HIV流行に対する政府と世間のばかげた反応が、マーキュリーの人生の扉を閉ざすことにつながったのだ。
それらは一切、映画には描かれていない。
1980年代初めにアメリカやイギリスなどの一部の都市でHIVの流行が初めて確認された時、各国政府は感染拡大を防ぐ対応をほとんど取らなかった。
医師たちは当初、感染が特定の人々の集団で見られると指摘していた。それは病気とは別の理由ですでに偏見の対象となっていた集団だった。つまり男性同性愛者に麻薬常習者、そしてハイチ系の人々(これは人種差別が原因)だ。
「HIVはゲイがかかる病気」
当局の当初の対応が偏見まみれだったのは、多くは「自己責任」で感染したとの考えがあったからだ。男性同性愛者が感染したのは、数多くの相手と性行為をするという危険な行動を取るせいだ、というわけだ。つまりHIVはほとんどの異性愛者にとっては脅威とならないという理屈だ。医療関係者もHIVはゲイがかかるものという偏った認識を持っており、HIVは当初、「ゲイ関連免疫不全」の頭文字を取った「GRID」と名付けられたほどだった。
言うまでもなくそれは科学的に誤っていた。安全にセックスするにはどうしたらいいかについて十分な啓蒙活動が行われない限り、そしてパートナーの数が多ければ多いほど、何であれ性感染症にかかるリスクは高くなる。男性同性愛者が特にエイズにかかりやすいような性行為をしていたわけではない。1970〜1980年代にかけて、多くの異性愛者も複数のパートナーと性行為を行った。だがたまたま当初、一部のゲイ男性のコミュニティに被害が多く出たというだけだ。
政府も一般大衆も、HIV感染者が死に向かうのを黙って放置した。HIVの問題が深刻化して2年間、アメリカ政府がエイズ研究に充てた時間は、シカゴ周辺で起きた連続毒殺事件の解明のために充てられた時間より短かったとの指摘もある。連続毒殺事件の犠牲者が7人だったのに対し、それまでにエイズで命を落とした人はアメリカだけで数百人に上っていたのにも関わらずだ。
イギリスで最初の症例が報告されたのは1981年だったが、検査薬は1985年まで存在しなかったし、本当に効果のある治療薬の登場は1996年まで待たなければならなかった。1985年に当時のマーガレット・サッチャー英首相は、安全なセックスを広めるための政府のキャンペーンをやめさせようとした。ティーンエージャーの性行為を助長するというのがその理由で、サッチャーは若者に感染の危険はないとまで主張した。
まさにこれは、公衆衛生上の深刻な問題であり、第1次世界大戦の死者に匹敵する3600万人を死に追いやることとなる感染症に対するばかげた反応だった。
こうした状況がマーキュリーを、そして他の性的少数者である男性たちを恐るべき状況へと追い込んだ。きちんとした感染予防のための情報が得られず、研究も遅れるなか、彼らは必要以上にウイルスと接触する危険にさらされた。1987年にエイズと診断されたマーキュリーは、多剤併用療法の開発を待つことはできなかった。もし間に合っていれば、死なずにすんだはずだ。
映画は偏見ない人がほとんど
マーキュリーが直面したのは死に至る病ばかりでなく、HIV感染者やエイズ患者への偏見も激しかった。診断の2年前に行われたロサンゼルス・タイムズの世論調査では、アメリカ人の半数以上がHIV感染者を隔離して欲しいと答え、同性愛者の集まるバーの閉鎖を求める人は42%に上った。マーキュリーは病が重くなるなかでも音楽を作り続けようと戦ったが、当時人気だったバンド、スキッド・ロウのリードボーカリストは「エイズはおかまをぶっ殺す」と書いたTシャツを着ていた。
だがそうした話は映画には出てこない。『ボヘミアン・ラプソディ』の登場人物の中に、強い同性愛者への偏見を持つ者はいない。同性愛への嫌悪が描かれたとしても、それはオブラートに包まれた形で出てくる。例えばバンド仲間がマーキュリーに、クイーンは絶対にヴィレッジ・ピープルにはならないと言うシーンがそれだ。ヴィレッジ・ピープルはゲイらしさを前面に出したグループだった。
現実には、マーキュリーは同性愛者への偏見にさらされた。生前、公にカミングアウトすることはなかったが、その理由は明白だ。88年にイギリスでは、いわゆる「反同性愛法」が施行された。同性愛を広めてはならず、同性カップルが作る家族は「偽りの」家族だとされた。この法律が撤廃されるまで10年以上かかった。
この時代のグラムロックやディスコミュージックシーンでは性的少数者のイメージがもてはやされたが、その前提にあったのは「本当は誰もが異性愛者であること」だった。デヴィッド・ボウイは1972年、メディアに対し自分は性的少数者だと語っていたが、1983年にはこれを撤回。「自分が両性愛者だと」述べたのは「これまでで最大の過ち」だったと述べた。
一部メンバーがゲイであることを明らかにして胸を張っていたヴィレッジ・ピープルだけは例外だったが、それが彼らの人気の原因だったわけではない。異性愛者が多数を占める大衆がその点にまともに向き合おうとしなかっただけだ。
胸に手を当てて考えてみて欲しい。子ども時代に「Y.M.C.A.」を踊った時、それがゲイカルチャーの歌だということを知っていただろうか。たぶん答えはノーだろう。
クイーンについても同じだ。コンサートに集まり「ウィー・アー・ザ・チャンピオン」を演奏する彼らを見ていたロックファンのうち、マーキュリーが単なるロックの神であるだけでなく、性的少数者にとっての偶像でもあることを知っていた人がどのくらいいたことか。多くはなかったはずだ。
もっと実像に迫る伝記映画を
80年代、マーキュリーはグラムロック的ないでたちをやめてゲイの世界で人気のスタイルに髪をカットし、黒い革ジャンを着てゴージャスな口ひげを生やすようになった。ファンの受けは悪く、ステージにカミソリを投げる人々もいた。
マーキュリーが1991年に死んだ時、クイーンのメンバーたちは放蕩が過ぎてエイズにかかったとする当時の報道に反論するためにテレビのインタビューに答える必要があると考えた。
今回の映画でも、あたかも寿命を縮めたのはマーキュリー自身の放蕩だったかのような描き方がされている。
映画では、マーキュリーはソロアルバム制作のためにバンドを放り出し、ボーイフレンドとともにミュンヘンに赴く。このボーイフレンドこそ、マーキュリーを放蕩に導いた人物だ。そこに元ガールフレンドがやってきてマーキュリーを救い出し、彼はクイーンに戻る。だが時すでに遅し。彼はHIVに感染していた。
現実ではマーキュリーはバンドとたもとを分かったことはないし、ソロアルバムを制作したのもクイーンの中で彼が最初ではない。それにもちろん、放蕩がエイズの原因だったわけでもない。
いつの日か、別の監督がもっと出来のいいマーキュリーの伝記映画を----彼が生きた歴史的な瞬間を、そして彼が向き合った困難を正確に描いた作品を----作ってくれるといいのだが。それだけの価値はあるはずだ。
(翻訳:村井裕美)
Laurie Marhoefer, Associate Professor of History, University of Washington
This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.
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