カズオ・イシグロをさがして
読者は微妙なヒントを通じて、自分で真実を発見したと感じる Toby Melville-REUTERS
<『浮世の画家』『日の名残り』『わたしを離さないで』......ノーベル文学賞に決まった日系イギリス人作家の独自の感性と表現>
私も含めてカズオ・イシグロのファンの厄介な傾向は、この作家と作品についての自分なりの「発見」を語らずにはいられないことだ。
それには理由がある。しっかりした語り口のイシグロの小説を読むと、「私に向けて直接語り掛けられている」と思いたくなる。それに、小説内にちりばめられた微妙なヒントや奇妙な出来事を通じて、読者は自分で真実を「発見」したと感じさせられるのだ。
私が初めてイシグロの小説と出合ったのは90年。オックスフォード大学の書店で、『浮世の画家』(以下、邦訳は全て早川書房刊)を手に取った。日本の名前を持ったイギリス人作家が日本を舞台に書いた小説、という点に興味を引かれた。
3日で読み終え、次の休暇中にも再読した。数年後、初めて日本語で読もうと思った小説もこの作品の日本語訳だった。英語で読んだことがあるし、少なくとも舞台は日本だから......と思ったのだ。
しかし、ここに描かれている日本は、著者自身も述べているように「想像上の日本」だ。5歳で日本を離れたイシグロは、外からの目と子供時代の遠い記憶と旺盛な想像力を通じてしか日本を知らない。
『浮世の画家』には、イシグロの小説が高い評価を受けている要素の多くが詰まっている。文学用語で言う「信頼できない語り手」の使い方は特に巧みだ。
読者の想像力を刺激する
読者は、小野という画家の視点で物語の世界を見るが、それを真に受けてはならないらしいと勘づき始める。重要な出来事の記憶があやふや過ぎるのだ。単に記憶違いをしているのか、自分自身を欺こうとしているのか。あるいは、読者やほかの人たちをだまそうとしているのか。
こうしてイシグロは読者に、自分の記憶を本当に信用できるのか、「自己」とは何なのかを改めて考えさせる。人の自我は不変のもので、過去は揺るぎない事実だと思われがちだが、実はそうとは限らない。
私は『浮世の画家』に感銘を受けたが、きっとこれが1作限りの傑作なのではないかとも思っていた。「日本生まれのイギリス人」という出自を生かしたエキゾチックな作品を、そう何度も書くわけにはいかない。
しかし、『日の名残り』を読んで、自分がいかにこの作家を過小評価していたかを知った。イシグロには、エキゾチシズムの助けなど要らなかった。『日の名残り』は、イギリス人でなければ書けないと思えるくらい、イギリス的な文学だ。