最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(ウガンダ編)

地上に名前の残らない人間たちの尊厳

2017年9月5日(火)15時45分
いとうせいこう


「その年齢になった時、機会は今しかないと思った。そして、わたしは決断しました」

まっすぐに俺を見て、レベッカはそう言い、柔らかく笑った。まるで自分の決断を俺に感謝するように。少なくとも彼女の中で、人生の変化は自分以外の何かが起こしていることだという感覚があるのだろう。

激しい雨で塀の上まで煙り始めているのが、レベッカの後ろに見えた。俺にはそこに何かが浮かんでいるような気がしていた。なんだろう、あれは。ひとつの塊のように、小さな靄のようなものが漂っている。

今まであちこちで見てきたあの存在だ、と感じた。もはや人間の形もとらないのかと驚いた。俺は自分の感覚がおかしくなっているのかもしれないとも考えたが、だからといってそこでこちらを"見ている"存在を否定することも出来なかった。

「まだまだやらなければならないことが、わたしにはたくさんあります」

レベッカは目の前でそう言って一度口をつぐみ、わずかの間だけ下を向いて言葉を選んでから続けた。

「例えば、ここウガンダのプロジェクトでも、性暴力被害の問題が繊細で取り扱いの難しい事柄です。深い傷を受けた方々をどう支えていけばいいのか。加害者はレイプを戦争の道具にします。敵をたたきのめすために女性を、あるいは男性を犯し、本人や家族、一族をはずかしめ、心を殺して支配するんです。わたしたちは被害者が生き抜いていけるよう、その心に命を通わせてケアさせてもらわねばなりません」

俺は一人の聖者を見ているように思った。背後の靄の塊は、その聖者を守っているのだろうか。

「ウガンダだけではありません。世界中にこうした性暴力があります。わたしはもっともっとケアを学びたいと思っています。そして被害者のために役立てたいんです」

聞けば間を置かずにミッションを続け、年の半分は活動地にいるというレベッカだった。背筋を一切曲げることのない彼女は、優しい表情のその奥に深い怒りと絶望を抱え持っているのだろうと俺は思った。あまりに残酷な世界を見ても、彼女は下を向かなかったのだ。今も向かない。

そこで俺は塀の上をゆらゆらするもののことを再び考えた。それまでに人の善性といった大げさなものだと解釈してきたが、実は単にそれは俺を待っている例えば一人の難民、あるいは一人の貧しさに苦しむ人、生まれてきたけれどすでにHIVに罹患している幼児、戦争から逃れてくる途中に強姦されて心を殺された女性、つまり助けを求めている人の象徴なのかもしれなかった。

彼ら一人一人、地上に名前の残らない人間が、俺のそばまで来て黙っている。彼らは差し伸べる手さえ失っているからだ。何度も差し伸べて拒絶され、心の中で切断されている。

果たして彼のために俺が出来ることはなんだろうか。俺の先回りをし、俺を導くことの出来る、けれど自分たちを救うことが決して出来ない彼らのために?

レベッカは谷口さんと話し始めていた。過去の活動地の幾つかが重なっているらしかった。その間に、俺はなお靄のことを思った。

あ、そうか。

俺はあやうく声に出すところだった。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

豊田織機が非上場化を検討、トヨタやグループ企業が出

ビジネス

日産、武漢工場の生産25年度中にも終了 中国事業の

ビジネス

豊田織機の非公開化報道、トヨタ「一部出資含め様々な

ビジネス

中国への融資終了に具体的措置を、米財務長官がアジア
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
特集:独占取材 カンボジア国際詐欺
2025年4月29日号(4/22発売)

タイ・ミャンマーでの大摘発を経て焦点はカンボジアへ。政府と癒着した犯罪の巣窟に日本人の影

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは? いずれ中国共産党を脅かす可能性も
  • 3
    トランプ政権の悪評が直撃、各国がアメリカへの渡航勧告を強化
  • 4
    健康寿命は延ばせる...認知症「14のリスク要因」とは…
  • 5
    アメリカ鉄鋼産業の復活へ...鍵はトランプ関税ではな…
  • 6
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 7
    ロシア武器庫が爆発、巨大な火の玉が吹き上がる...ロ…
  • 8
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 9
    関税ショックのベトナムすらアメリカ寄りに...南シナ…
  • 10
    ロケット弾直撃で次々に爆発、ロシア軍ヘリ4機が「破…
  • 1
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 2
    「生はちみつ」と「純粋はちみつ」は何が違うのか?...「偽スーパーフード」に専門家が警鐘
  • 3
    「スケールが違う」天の川にそっくりな銀河、宇宙初期に発見される
  • 4
    【クイズ】「地球の肺」と呼ばれる場所はどこ?
  • 5
    女性職員を毎日「ランチに誘う」...90歳の男性ボラン…
  • 6
    教皇死去を喜ぶトランプ派議員「神の手が悪を打ち負…
  • 7
    『職場の「困った人」をうまく動かす心理術』は必ず…
  • 8
    自宅の天井から「謎の物体」が...「これは何?」と投…
  • 9
    「100歳まで食・酒を楽しもう」肝機能が復活! 脂肪…
  • 10
    トランプ政権はナチスと類似?――「独裁者はまず大学…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった...糖尿病を予防し、がんと闘う効果にも期待が
  • 3
    【クイズ】世界で最も「レアアースの埋蔵量」が多い国はどこ?
  • 4
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 5
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 6
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
  • 7
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 8
    自らの醜悪さを晒すだけ...ジブリ風AIイラストに「大…
  • 9
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 10
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中