ロヒンギャを襲う21世紀最悪の虐殺(後編)
それでも、難民申請や在留特別許可を認められたロヒンギャはこれまで230人ほどいる。ゾーミントゥットやアブールカラムが口をそろえて言うように、日本での生活は安定している。
彼らの悩みはむしろ、ロヒンギャ以外の在日ミャンマー人からの拒絶だ。迫害こそされていないものの、祖国で経験した非国民扱いを、逃れ着いた日本でも経験しているのだ。
日本にはロヒンギャ以外にも多くのミャンマー人が暮らす。「彼らは普段、ロヒンギャが経営する食材店で買い物をするし話もする」と、在日ミャンマー人社会とのつながりも深い田辺は言う。「ただ、政治的な集まりや国家行事を祝う式典などでは、ロヒンギャを爪はじきにする」
88年、ミャンマーでの大規模な学生運動の盛り上がりを受けて、在日ミャンマー人の間でも民主化運動が活発化した。同じ年の9月には在日ミャンマー人協会が設立され、民主化に向けた機運を高めた。ロヒンギャ出身者が協会の書記長を務めたこともあり、露骨なロヒンギャ拒絶は見られなかったと、当時を知る田辺は振り返る。
潮目が変わったのは00年頃。「88年当時は民主化の盛り上がりもあり民族間のいさかいが隠れていたが、運動が落ち着くと拒絶し始めた」と、田辺は言う。
その理由は恐らく国籍法にある。88年世代の学生たちは国籍法を発令したネウィン政権下で教育を受けた人が多く、ロヒンギャに対する潜在的な差別意識が強く残っているという。
ロヒンギャも民主化のために闘っている。敵は同じ軍政なのになぜ共闘できないのか――。田辺は幾度となく迫ったが、彼らは決まってこう答えた。「ロヒンギャはミャンマー人ではない」
また田辺によれば、ロヒンギャは他のミャンマー人に比べて圧倒的にビジネスがうまい。それ故の嫉妬や妬みも背景にあるのかもしれない。
実はこうしたロヒンギャへのやっかみは、かつてラカイン州でも見られた。軍政下では多くの国民が自由を奪われ、貧しい生活を余儀なくされていた。その中で、商才を発揮したロヒンギャたちが裕福な生活をしているのを、妬みの目で見るミャンマー人は少なくなかった。
商才ある人々が妬みゆえ迫害を受ける――かつてユダヤ人に向けられた憎悪を連想させるロヒンギャが、「ミャンマーのホロコースト」という悲劇の主人公になっているのは、偶然なのだろうか。
ロヒンギャ浄化の「総仕上げ」
移住先である日本でも差別や拒絶を受け続けながら、祖国で苦しむ同胞の救済を国際社会に訴え続けるゾーミントゥットやアブールカラム。彼らの闘いは孤独で、時に絶望的だ。
「このまま行けば、間違いなくロヒンギャはミャンマーという国から消えてしまう」と、アブールカラムは嘆く。彼はその後、カレン軍入隊を断念。タイでの暮らしを経て00年に日本に難民としてやって来た。「ロヒンギャ問題だけを叫ぶと宗教問題に見られるが、問題はそこじゃない」。ミャンマー政府の暴力が続けば、やがてシリアのように国が分裂してしまう。彼の懸念はそこにある。