イギリスはなぜ香港を見捨てたのか
引き揚げを指揮したのは、最後の第28代香港総督を務めたクリス・パッテンだった。それは香港返還にとどまらず、大英帝国の事実上の終焉だった。
パッテンは、多くの政治家のように成功することでのし上がるのではなく、屈辱的な失敗を成功に変える抜け目のない政治家だった。1992年の英総選挙でメージャー率いる保守党が勝利したとき、幹事長として勝利に貢献したパッテンは、自分の選挙区で労働党の候補に敗れて議席を失った。
そのニュースが流れた時、保守党本部は大いに盛り上がった。多くの保守党議員は、パッテンは左寄り過ぎると思っていた。サッチャーにも嫌われ、周囲もそのことを知っていた。
それでもメージャーはパッテンの味方をし、1997年6月30日の香港返還までの香港総督に任命した。イギリス政府はこのポストに、中国市場での利益を危険にさらさない無難な人材を望んでいた。選挙に落ちたパッテンは安全な選択肢に見えた。総督という特権的地位と年金に満足し、政治には干渉すまい──だがそうした見方は見事に外れた。
パッテンには、羽飾り付きの帽子も、論争は傍観するという総督の伝統的なたしなみも捨てて、論争に参加した。1992年7月の就任時、パッテンは人権や自由、民主主義などの言葉を口にして中国政府を不快にさせた。
中国政治家にはありえない人気
中国だけではない。英経済界がどれほどパッテンの言動を憂慮していたか、1993年にパッテンが心臓の手術を受けた時に明らかになった。報道で彼が手術中だと伝わると、ロンドンの株価は高騰。回復に向かっていると発表されると、わずかだが売り注文が増えた。
パッテンには妻と3人の娘がいたが、一家は気さくで、妻が病院や慈善団体を訪問する時もリラックスした雰囲気だった。
新聞の風刺漫画にはよく、ウイスキーとソーダというパッテンの愛犬が登場した。どちらも犬種はノーフォーク・テリアで、中国の政治家のかかとに噛みついたりする場面が描かれた。
パッテンは、上流階級が住む高台ではなく香港の旧市街を散歩した。どこから見ても彼は人気者だった。高齢の婦人から建設現場で働く労働者まで、パッテンを見つければ誰もが握手を求めた。カフェに入れば、中国の政治家が夢にも思わないようなもてなしを受けた。
イギリス統治下の香港には、香港住民の意思を反映させる政治制度がなく、民主主義は存在しなかった。パッテンはそうした状況を正そうとしたが、ビジネス上の重大な関心を優先する地元の大立者や中国政府の頑なな反対にあった。民主主義を経験したことのない一般大衆も、パッテンが目指した議会の民選化に反対した。