アフリカ象を横目にして
けれど、その前に打てる最善手といえば、流入元である南スーダンの紛争を停止、出来れば解決することであり、そこに関してはMSFが関与不可能な領域ということになる。
空はすっかり晴れ、左右にはどこまでも緑が続き、風は爽やかで道はまっすぐなのだけれど、俺たちが決して気を緩めることが出来ないのはそういう事情を知っているからだった。
やがて、道路上にヒヒの群れがあらわれた。大きな親の近くに子供たちがまとわりついていた。ガゼルのようなものが少し遠くにいたのも覚えている。
そういう時、ボサが必ず、
「アニマル!」
と言って教えてくれた。アニマルとはずいぶん大きなとらえ方だが、彼が指さす彼方にその度に何かがいた。ただしかなり長い時間見つめていないと俺たちにはわからないのだけれど。
そんなやり方でアフリカ象が道路のすぐ脇にいたこともあった。さすがにアフリカの大地は生命の宝庫なのだった。
14時、ようやくアルアという町に着き、店舗や事務所が入った建物の一階にある暗い食堂へ入った。顎をあげて近づくウェイターに、ドライバーは何があるのか聞いた。彼はムスリムで肉を食べないので、マトケという芋に近い味のバナナをすりつぶしたもの、豆、付け合わせに茹でたモロヘイヤとキャベツを乗せた皿を頼んだ。俺はタロイモ的な芋にした。
ここでもウェイターはいかにも気位が高く背筋がぴんと伸びていて、黒板に白墨で書かれたメニューがなくてもまったく動じなかった。そういう時間に来る方が悪いという感じだった。
まわりを見ると、黒いスーツに蝶ネクタイをし、靴をピカピカに磨いたアフリカ男性が数人いて、アフリカならではの洒落た伊達者の世界、かつて大英帝国の植民地であった時に学んだジェントルマンの風格が、いまだに地方の町にも残っているのだった。
アルアには食堂の横に大きな病院もあり、それはもともとMSFが建てて今は地元に引き継いだもので、研究所だけはいまだにMSFが運営してHIVや風土病の調査をしているのだと谷口さんが教えてくれた。
そして俺はと言えば、細長い魔法瓶に入ったお湯と、インスタントコーヒーの瓶が来る例のスタイルでコーヒーを飲み、わずかに休んだのみでまたバンに乗った。
町からは舗装道路が切れた。赤い土がむき出しになったがたがた道で、なおも北へ北へと俺たちは進んだ。1時間ほどすると、右側にやはりMSFのOCA(オペレーションセンター・アムステルダム)が南スーダンからの難民を支援している活動地があるとのことだったが、俺にはただの薮と丈高い草で覆われた場所の向こうでとても把握出来る状況ではなかった。建物が見えないと、あたりが広すぎて違いがわからないのだ。しかも狭くなってきた道は標識なくあちこちで左右に分かれる。
考えれば、すでに9時間は車に乗っていた。目に入るものは基本的に木と草、そして極彩色の布をまとった女性たち、男と子供、ごくたまにアニマル。さすがに頭がぼんやりとしてきていた。
気がつくと、ずいぶん前からひとつのトラックのあとをついて、ぐらぐら揺れながら走っていた。荷台に何が載っているものか、軽く車高の倍はふくらんでいる。ドライバーによると、先にナイル川のフェリーの船着き場があってそこに荷物を運んでいるらしかった。
そのトラックの後ろに『福島』と書いてあるのがやがてわかってきた。日本の中古車が人気だとはうっすら知っていたが、アフリカの奥で一緒に走り続けていることに妙な感慨があった。
右側から三才くらいの男の子が走り出てきた。一心にトラックを見て何か叫び、両手を差し出す。すると盛り上がった荷台の上から空のペットボトルが投げられた。子供に向かってゴミを捨てたことに抵抗を感じたが、当の男の子は夢中でそこに走っていって、ペットボトルを拾うとまた走って家へ帰った。思えば確かに自動販売機など一切ない、ただただ自然が続く場所なのだった。