アイシャを覚えていますか? 金正男暗殺実行犯のインドネシア人女性の運命は
インドネシア語紙「コンパス」は高裁への審理移管を伝える記事の冒頭で「まだあのアイシャを覚えていますか」という文章で読者に問いかけた。これはアイシャ被告や金正男暗殺事件への国民の関心が薄れていることを図らずも示している。
そして記事の中でアイシャ被告に面会しているクアラルンプールのインドネシア大使館のユスロン・アンバリ領事がインドネシアのメディアに対してアイシャ被告が両親に宛てて「心配しないで」などと書いた手紙を公開したことを伝えている。
同紙の報道によると、アイシャ被告は手紙の中で「私は元気です。大使館の人など支援してくれる人が沢山います。どうか心配しないで体を大切にして、私のために祈って下さい」などとしたうえで裁判について「(裁判のために)こちらに来る必要はありません。裁判は早く終わって家に戻ることができると信じています。だから心配しないでください。あなた方の子供である私から愛をこめて(この手紙を)送ります」と書かれている。
金正男氏の暗殺事件は、混雑する国際空港が北朝鮮の「要人」である人物を猛毒ガスで殺害するというセンセーショナルなニュースとして発生当初は「国際的なテロ」として内外から大きな注目を浴びた。
舞台となったマレーシアは当局の捜査を批判し、非協力的な北朝鮮に対し「国交断絶も辞さない強い姿勢」をナジブ首相が示し、容疑者として北朝鮮人1人を逮捕、重要参考人とされる北朝鮮国籍の複数の人物が北朝鮮大使館内に「籠城」する事態となった。北朝鮮国内のマレーシア人も出国が妨害されるなどお互いに自国民が"人質"にとられる形となり、一時は膠着状態に陥った。
関係国にとって都合のいい展開
その後事態は急転、逮捕された男性は証拠不十分で釈放、北朝鮮に留め置かれたマレーシア人の帰国と北朝鮮大使館内の重要参考人らを"交換"する形に進展。北朝鮮国籍の全員がマレーシアを出国して中国経由で帰国した。金正男氏の遺体も家族が引き取りを拒否したためか死因の調査、使用毒物の分析など詳細が公表されることもなく北朝鮮に移送されてしまった。
当時はナジブ政権が経済援助などで関係が緊密化していた「中国の介入」が背景にあったとの見方が強かったものの、「報道の自由」が確立されていないマレーシアでは政権批判もほとんどなく、「知らないうちに事件は忘れられ、2人の女性被告だけがスケープゴートとして暗殺の罪を問われる形になった」(マレーシア人記者)として、2被告の裁判で事件の幕引きが図られようとしている。
今後始まる裁判では2女性被告の事件への関与と動機などが主に争点となるが、北朝鮮関係者が法廷に不在では暗殺事件の政治的背景や犯行グループの素性、VXガスの入手経路などが明らかにされることはほとんど不可能といえる。
判決次第では再びインドネシアでアイシャ被告に関する報道が盛り上がることも予想されるものの、それがマレーシアの司法手続きに影響を与えることは難しいだろう。
こうした事態は、暗殺事件の「黒幕」とされる北朝鮮、舞台となったマレーシア、影響力を行使したという中国、いずれにとってもシナリオ通りの都合のいい展開と結末といえるだろう。
[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など
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