最新記事

マレーシア

アイシャを覚えていますか? 金正男暗殺実行犯のインドネシア人女性の運命は

2017年6月5日(月)14時30分
大塚智彦(PanAsiaNews)

インドネシア語紙「コンパス」は高裁への審理移管を伝える記事の冒頭で「まだあのアイシャを覚えていますか」という文章で読者に問いかけた。これはアイシャ被告や金正男暗殺事件への国民の関心が薄れていることを図らずも示している。

そして記事の中でアイシャ被告に面会しているクアラルンプールのインドネシア大使館のユスロン・アンバリ領事がインドネシアのメディアに対してアイシャ被告が両親に宛てて「心配しないで」などと書いた手紙を公開したことを伝えている。

同紙の報道によると、アイシャ被告は手紙の中で「私は元気です。大使館の人など支援してくれる人が沢山います。どうか心配しないで体を大切にして、私のために祈って下さい」などとしたうえで裁判について「(裁判のために)こちらに来る必要はありません。裁判は早く終わって家に戻ることができると信じています。だから心配しないでください。あなた方の子供である私から愛をこめて(この手紙を)送ります」と書かれている。

金正男氏の暗殺事件は、混雑する国際空港が北朝鮮の「要人」である人物を猛毒ガスで殺害するというセンセーショナルなニュースとして発生当初は「国際的なテロ」として内外から大きな注目を浴びた。

舞台となったマレーシアは当局の捜査を批判し、非協力的な北朝鮮に対し「国交断絶も辞さない強い姿勢」をナジブ首相が示し、容疑者として北朝鮮人1人を逮捕、重要参考人とされる北朝鮮国籍の複数の人物が北朝鮮大使館内に「籠城」する事態となった。北朝鮮国内のマレーシア人も出国が妨害されるなどお互いに自国民が"人質"にとられる形となり、一時は膠着状態に陥った。

関係国にとって都合のいい展開

その後事態は急転、逮捕された男性は証拠不十分で釈放、北朝鮮に留め置かれたマレーシア人の帰国と北朝鮮大使館内の重要参考人らを"交換"する形に進展。北朝鮮国籍の全員がマレーシアを出国して中国経由で帰国した。金正男氏の遺体も家族が引き取りを拒否したためか死因の調査、使用毒物の分析など詳細が公表されることもなく北朝鮮に移送されてしまった。

当時はナジブ政権が経済援助などで関係が緊密化していた「中国の介入」が背景にあったとの見方が強かったものの、「報道の自由」が確立されていないマレーシアでは政権批判もほとんどなく、「知らないうちに事件は忘れられ、2人の女性被告だけがスケープゴートとして暗殺の罪を問われる形になった」(マレーシア人記者)として、2被告の裁判で事件の幕引きが図られようとしている。

今後始まる裁判では2女性被告の事件への関与と動機などが主に争点となるが、北朝鮮関係者が法廷に不在では暗殺事件の政治的背景や犯行グループの素性、VXガスの入手経路などが明らかにされることはほとんど不可能といえる。

判決次第では再びインドネシアでアイシャ被告に関する報道が盛り上がることも予想されるものの、それがマレーシアの司法手続きに影響を与えることは難しいだろう。

こうした事態は、暗殺事件の「黒幕」とされる北朝鮮、舞台となったマレーシア、影響力を行使したという中国、いずれにとってもシナリオ通りの都合のいい展開と結末といえるだろう。

otsuka-profile.jpg[執筆者]
大塚智彦(ジャーナリスト)
PanAsiaNews所属 1957年東京生まれ。国学院大学文学部史学科卒、米ジョージワシントン大学大学院宗教学科中退。1984年毎日新聞社入社、長野支局、東京外信部防衛庁担当などを経てジャカルタ支局長。2000年産経新聞社入社、シンガポール支局長、社会部防衛省担当などを歴任。2014年からPan Asia News所属のフリーランス記者として東南アジアをフィールドに取材活動を続ける。著書に「アジアの中の自衛隊」(東洋経済新報社)、「民主国家への道、ジャカルタ報道2000日」(小学館)など



【お知らせ】ニューズウィーク日本版メルマガリニューアル!
 ご登録(無料)はこちらから=>>

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:またトランプ氏を過小評価、米世論調査の解

ワールド

アングル:南米の環境保護、アマゾンに集中 砂漠や草

ワールド

トランプ氏、FDA長官に外科医マカリー氏指名 過剰

ワールド

トランプ氏、安保副補佐官に元北朝鮮担当ウォン氏を起
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 2
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 3
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたまま飛行機が離陸体勢に...窓から女性が撮影した映像にネット震撼
  • 4
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 5
    「ダイエット成功」3つの戦略...「食事内容」ではな…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 8
    クルスク州のロシア軍司令部をウクライナがミサイル…
  • 9
    「何も見えない」...大雨の日に飛行機を着陸させる「…
  • 10
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 3
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 9
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 10
    メーガン妃が「輝きを失った瞬間」が話題に...その時…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 9
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中