ミッションを遂行する者たち──マニラの「国境なき医師団」
さらに2010年には俺も訪ねたハイチに偶然ミッションで入っており、つまり大地震を体験してしまったのだそうだ。それは小さなアルマゲドンだった、とジョーダンは言う。
「周囲のビルもMSFの病院も崩れ落ちた。人材も医療品もMSFとして確保されているのに、残念ながら病院がないんだ。それでロジスティシャンとして場所を緊急に設計して、木の板でベッドを作ったし、シーツで天井を作った。ない物はがれきの中から拾ったよ。コンテナの中で手術もしてもらった」
そこまで言ってジョーダンはふうと息を吐き、俺を見た。
「7人のスタッフを亡くした。たくさんの患者を亡くした」
とジョーダンは表情を変えずに言った。
災害などの緊急援助にあたったスタッフは必ず休ませる、とは菊地寿加さんにも聞いた通りだ。地震後10日間働きづめに働いたジョーダンを、MSF活動責任者は母国に戻した。彼本人はまだまだやることがあると反発したが、
「今思えば正しい判断だったよ」
とジョーダンは俺たちにはっきり言った。なぜかを話さない彼だったが、その後もPTSDがあったに違いない。そのままミッションを続けていれば、彼は壊れかねなかったということだ。
それでも2年後、ジョーダン・ワイリーはハイチのミッションに戻る。彼の責任感はやり残したことをそのままにしておけなかった。そこに戻る仲間もいた。
シリアにも何度か入った。2013年には銃を持った者が病院内に侵入し、自分ともう一人のスタッフがスパイと間違われて殺されるか誘拐かどちらかだと感じる状況に陥ったこともあった。この時はまわりの村の人たちが救いに来て「この人は私たちに医療を提供してくれているのだ」と説得してくれたそう。その時、人道援助の空間が守られないという事態に直面してそれまでの活動では経験したことのない無力さを痛感したという。
マニラのひとつ前にはチャドにいた。奥さんのエリンも同行して共にチャドにいたそうだが、ボコハラムが跋扈する土地で終日MSFの敷地内にこもる毎日では、彼女の安全もストレスも心配きわまりなかった。だから今マニラにいるのは安心だ、とジョーダンは言った。
「僕自身は今回の活動を去年の10月から始めて、歩みはひどく遅いながらもあきらめずに計画を前に進めている。MSFとしてもこれはチャレンジなんだ、セイコー。今までのように"絆創膏を貼る(事態の根本的な解決はその国にまかせ、緊急援助のみに集中する)"だけでなく、問題の内部に自ら入ること。しかも」
とジョーダンは姿勢の癖でかがめている身をさらに小さくして俺たちに近づいた。
「フィリピンは女性政治家も多いし、女性の力が強い。アメリカも日本も見習うべきだ。ただしリプロダクティブ・ヘルスが弱い。そこをどう援助していくか」
つまり彼はもちろんフィリピンの問題にどう関わるかを配慮しながら、同時にその国のよさを世界にどう輸出するかも考えているわけだった。世界の女性の権利を健康から考える。ジョーダンはその一助となりたいのだ。
そうした目標の中でこそリカーンは自国の女性問題に長く力を尽くしてきた団体として、MSFの導きの糸になる。