昭和30年代のようなマニラのスラムの路地
スラムへ
さて、ブリーフィングが終わると、まさにそのタイミングでオフィスのフィリピン女性が飛び出してきて、俺にスタッフの電話一覧表をくれた。話が済むのを陰でじっと待っていたらしい。
彼女は「日本で有名な作家さんなんですよね?」と俺に微笑みかけながら言った。「そんなことないですよ」と答えると、彼女は「いえいえ知ってます。あたし、ネットで調べたんですよ」と恥ずかしげに、しかし人懐っこく言う。そうした気遣いの細かさに、俺は自分が小さな頃の日本と同じものがあると感じた。俺たちが失っている雰囲気を、彼女は持っていたのである。
あれやこれやが完了して、俺たちはジェームス、ロセル、そして現地スタッフのくりくりした目のフィリピン人男性(健康教育担当スタッフのジュニー・アベラジュニ)と共に、バンに乗り込んだ。
車が発進してすぐ、右側に芝生の美しい公園が見え、スペイン建築らしきものが確認出来た。それがイントラムロスという観光地で、左の海岸手前にも芝生の一帯があった。実際に中国からの観光客だろうと思われる団体がバスから降りていた。
ところが、公園地帯を過ぎて川を橋で渡ると、すぐに掘っ立て小屋の連続になった。左側には巨大なトラックのタイヤが積まれ、その脇に大量の土砂とゴミが山になっていた。ところがそれはゴミ置き場ではなかった。後ろ側に崩れた木造の家々があり、人が歩き回っている。男は上半身裸が多かった。うろうろする幼児の中には丸裸もいた。
気がつけば、道路の中央分離帯にも女性が数人いて横になって眠っていた。彼女たちのすぐ横をトラックが往来していた。
スラム地帯はきれいな観光地の隣に広がっていて、行けども行けども終わる様子がなかった。あまりに即座に景色が変わったので、感慨の持ちようがなかった。スラムを抜けたなら気持ちのまとめようもあったろうが、木造の半ば潰れかけた小屋や、建て増ししていびつになった家、からまる電線はいつまでも続くのだ。やがて、それらの間に人が通れるかどうかの道があり、奥にずっと小屋が並んでいるのがわかってきた。
とんでもない密集度で人が暮らしていた。
と、そういえば自分がスラムのどの地点へ行くのかを俺は把握していないのに気づいた。
一体俺は何をしているのか。
目の前の状況を客観化出来ず、そこに援助が届く気もしなかった。ただただ手のつけようもない貧困がそこにあり、おそらく車で別方向に20分も行けばマカティという超バブルなビル群のある地域なのだった。差は歴然とし過ぎていて、かえって不明瞭な気がした。すべてがあまりに露骨だった。
バンが右折し、狭い道の中に入った。
屋台があり、子供たちが走り、大人はこちらをじっと見ていた。頭上に電線が行き来していた。
そうやって実際にスラム内に入ると、俺は視界に飛び込む光景を懐かしいと感じた。自分が育った昭和30年代の東京も、ほとんどそんな雰囲気だったのだ。俺の家それ自体、壊れそうな木材とトタンで出来ていた。
車が止まった。
ジュニーがまず降り、ジェームスも巨体を揺らして黙って続いた。ロセルもあとを追い、俺も谷口さんもそうした。スラムに音は少なかった。静かな横丁だった。
ひとつ3階建てだったか、広めの家があった。向かいにもスペイン風の別荘めいたものがあったから、スラムでもすべてが一様に貧しいわけではなさそうだった。