最新記事

いとうせいこう『国境なき医師団』を見に行く(フィリピン編2)

あまりに知らないスラムのこと

2017年1月26日(木)16時30分
いとうせいこう

 この"ご近所"という感覚をどうとらえるかとまどったが、のちの説明をまとめると、フィリピンにはもともと「村」のような自治組織があり、とはいえ悪名高いマルコス大統領治政下でそれは体系づけられたのだった。マルコス以前にあった「バリオ」という仕組みを新しく利用したのである。

 ただ、"村のような"と言っても血筋や出身地とはまるで関係がなく、今でもバランガイには「南から流入してくる移民が参加する」のだというから、日本の俺たちにも理解しにくい。第二次世界大戦時の「隣組」のようなものかもしれない。フィリピン全土で5万を超えるバランガイがあり、それぞれの長が選出されているというからまさに自治のシステムのようだ。

 そうしたバランガイがひしめきあうようにしてトンド地区は成り立っている。ちなみに貧しさのシンボルともなっていたスモーキーマウンテンというゴミ集積場は、このトンドの中にかつてあった。しかもトンドは中国人移民によって王国が建てられたあとに出来ている(「東都」と書いてトンドと読んだ)から、中国→ブルネイ→スペイン→アメリカと支配者が替わり続けてきた複雑な場所でもある。 

0120ito3.jpg

この丸の中の数字が各共同体の世帯数だ

 さて、その歴史の屈折した、スラムの多いトンド地区で、MSFは『リプロダクティブ・ヘルスに関わるミッション』を始めているのだった。くわしくはこのあとジェームスに講義をしてもらうことにして、活動責任者ジョーダンから直接伝えられた取材における注意事項を先に書いておきたい。

 まず、スラム地区の人々は今神経質になっている、とジョーダンは言った。なぜならドゥテルテ大統領の麻薬撲滅政策によって満足な調査なく人が処刑されてしまうからで、「夜楽しく別れた者が朝には逮捕拘留されていることなど日常茶飯事だからだ」

 「しかしセイコー」

 ジョーダンは滞在中、こうして何度も俺の名前を親しく呼んでくれたものだ。

 「スタッフにも住人にも政治の話は聞かない方がいい。彼らを窮地に追いやる危険があるからね。その上、もし彼らが微笑んで穏やかに答えていても、それが本音とは限らない。彼らは優しく感情を隠すんだよ。それが礼儀だと彼らは考えている

 これには谷口さんからもコメントがあった。

 「とっても日本人に似てますね」 

 「そう、君たちに似ている。そしてセイコー」

 「はい」

 「写真にも気をつけて欲しい。彼らはどんどん人を紹介してくれるし、写真を撮るように促しさえする。けれど彼らの好意に甘えていると彼らに危険が及んでしまう」

 俺は取材が急に剣呑なものになるのを感じ、思わず息を止めたままジョーダンの注意を受け入れた。

 「それに我々は政治を変えようとしてここに来ているわけではないんだ。それは彼らの問題であって、我々が行うのはあくまで医療不足を埋める方法を提示することだけだから」

 青いシャツの奥にジョーダンのよく鍛えられた胸と腹の筋肉があるのがわかった。にこやかで親しげで頭脳明晰なジョーダンは、肉体だけでなく倫理的にも自己をよくトレーニングしており、その上で冷静に日々のミッションをこなしているのだった。

 さて、俺たちは別部屋にいるケニア人ジェームスからさらに短い説明を受けて、午前が終わらないうちに実際にスラムの中での活動を見に行くことになる。

 ごくごく母国に近いフィリピンのことを何もわかっていなかった俺は、このあと混乱気味のまま広い貧困地区へ足を踏み入れるわけだ。 

続く


profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、FDA長官に外科医マカリー氏指名 過剰

ワールド

トランプ氏、安保副補佐官に元北朝鮮担当ウォン氏を起

ワールド

トランプ氏、ウクライナ戦争終結へ特使検討、グレネル

ビジネス

米財務長官にベッセント氏、不透明感払拭で国債回復に
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 3
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでいない」の証言...「不都合な真実」見てしまった軍人の運命
  • 4
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 5
    ロシア西部「弾薬庫」への攻撃で起きたのは、戦争が…
  • 6
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたま…
  • 7
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」…
  • 8
    プーチンはもう2週間行方不明!? クレムリン公式「動…
  • 9
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 10
    ウクライナ軍、ロシア領内の兵器庫攻撃に「ATACMSを…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 3
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査を受けたら...衝撃的な結果に「謎が解けた」
  • 4
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 5
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参…
  • 8
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 9
    クルスク州の戦場はロシア兵の「肉挽き機」に...ロシ…
  • 10
    沖縄ではマーガリンを「バター」と呼び、味噌汁はも…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 5
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 6
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 7
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 8
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 9
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
  • 10
    モスクワで高層ビルより高い「糞水(ふんすい)」噴…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中