「知能が遺伝する」という事実に、私たちはどう向き合うべきか?
親の子育てや先生の教え方は、子どもがどう育つかに無関係
世の中には、たくさんの子育て本が出ており、さまざまなテクニックが紹介されています。しかし、そうしたテクニックの効果は、行動遺伝学の立場から考えると、あまり期待できません。
行動遺伝学が導き出した重要な知見の1つは、個人の形質のほとんどは遺伝と非共有環境(家族のメンバーを異ならせようとする環境)から成り立っていて、共有環境の影響はほとんど見られないことです。共有環境をつくる主役は親(または親にあたる人)であり、親の愛情ある子育てが子どもの成長に重要であることはいうまでもありませんが、その親がどんなふるまいや子育ての仕方をするということは、子どもの個人差にはほとんど影響を与えません。
また、よい学校に通い、教え方のうまい先生に出会えば、子どもがやる気を出して劇的に賢くなるとも言えません。教え方やクラスの違いより、遺伝の影響の方がずっと大きかったのです。これも教育がムダだという意味ではなく、教育や学習の仕方を少しくらい変えただけでは、成績に劇的な変化を起こすことができないほど、いまの学校教育がみんなに行き届いていることを意味します。
それでは、英才教育の効果はどうでしょうか?
各種競技や学科の得意な子どもを選抜することで、彼らのモティベーションが上がり、当面のところ、どんどん能力が上がっていくことは大いにありえます。しかし行動遺伝学では知能への遺伝の影響は子ども時代は小さく、大人に向かって大きくなることがわかっています。小学生の場合、遺伝的な資質はまだ発現途上にありますから、この時点で子どもをエリートコースに振り分けるのは危険が大きいといわざるをえません。
あらゆる文化は格差を広げる方向に働く
教育の1つの役割は、知識のない人に知識を、能力のない人に能力を身につけさせることです。文字を知らない人たちに文字を教え、計算のできない人に計算の仕方を教えれば、その人たちは成長し、今までできなかったこともできるようになる----。
ここで忘れられがちなのは、個人差です。確かに人々に教育を施すことで、全体としての知識や能力は上がりますが、同時に個人間の格差も拡大させる方向に働きます。
教育が一部の人にしか与えられなかったときには、能力や知識の差は、その教育を受けたかどうかという環境の差で説明することができました。しかし、誰もが教育を受けられるようになれば、遺伝的な差が顕在化してくるのです。
小規模な家族や部族で活動していた狩猟採集民の社会では、個人間の格差はそれほど大きなものではありませんでした。体力や判断力、記憶力など個人の能力に差はあっても、小さなコミュニティでは各人が自分の役割を担っていました。部族内の教育で伝えられるのは当たり前の具体的な知識ですし、文化内容に広いバリエーションがあったわけではありません。
やがて定住生活が始まり、国家が生まれ、18世紀には産業革命が起こります。身の回りのわかりやすい知識さえ学べばよかった時代から、科学技術や複雑な社会制度のように抽象的な知識を活用できる人材が求められる時代になっていきました。
世界的に知的能力が必要とされ、教育の目的も知的能力を増幅することに重点が置かれるようになりました。そこに教育資源が投入されることで、遺伝的な差がより顕在化していくこととなったのです。