【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編)
このエピソードを数人の日本人記者に話したところ、それを知ったサダコの兄の佐々木雅弘が04年か05年に「いつかお会いできますか」と電話してきた。会ってどうするかまでは考えなかったが、私は「イエス」と答えた。
結局、私たちは10年にニューヨークで会った。雅弘と彼の息子の佐々木祐滋(ゆうじ)が禎子の折り鶴を9・11テロの追悼施設に寄贈したときだ。祐滋がプラスチックの箱から小さな鶴を取り出して私の手のひらに乗せ、「これは禎子が亡くなる前に最後に折った鶴です」と言った。そして、雅弘と祐滋は「広島と長崎の平和記念式典に来ることを検討していただけますか」と言った。
私は「イエス」と答え、2年後に日本に向かった。長女は仕事のため行けなかったが、当時23歳だった長男と15歳の次男を連れて行った。これがすべての始まりだ。
――広島、長崎についてお子さんたちにどのように教えたのですか。
彼らは既にその話に触れていたから、教える必要はなかった。長男はサダコの本を読み、歴史の授業を受けていた。広島と長崎に一緒に行き、翌13年には被爆者13人の証言を録画して伝えるために日本を再訪した。
録画テープをハリー・トルーマン大統領図書館(ミズーリ州)のウェブサイトに掲載するために、被爆者の話に英語の字幕を付けようとしている。ドキュメンタリーや映画、テレビ番組などで使えるようにするためだ。
――サダコの本を読んだ当時、息子さんから何か質問をされましたか。
長男は当時10歳だった。特に何も聞かれなかったが、私は「(原爆投下の)決断を下したのは、ひいおじいちゃんだ」と伝えた。その事実は知っていたはずだが、彼の中では(サダコの物語と曽祖父のことは)つながっていないようだった。まったく別の話として読んでいたから。
――それを聞いた息子さんの反応は?
......受け入れていた。彼はあの本を気に入っていたし、鶴を折るのが好きだった。日本が好きで、武道を習って育った。彼は単純にヒロシマ、ナガサキに興味を持っていた。
――それから17年がたちました。その間に息子さんから何か質問されたことは?
聞いてくる必要はなかった。彼自身が(トルーマン元大統領について)本を読むなどしてきていたから。
――あなたに対して「おじいさんの決断をどう思うか」と聞いてきたことはないのですか。
(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、原爆投下は素晴らしい考えだったと言ったりはしない。しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、原爆投下が間違っていたと言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない。
――これはあくまで私の想像ですが、あなたはおそらく、祖父の決断が正しかったかどうかを知りたくなったのではないでしょうか。そして、その決断を正当化できるか否かを理解しようと努力してきたはずです。しかし、その結果たどり着いた結論を口に出したら、日本人とアメリカ人の双方に大きな影響を与えてしまう。だから言わないでいるのでは?
話すことはできる。祖父が大統領時代に使っていたキーウェストの保養地で毎年学術会議が行われており、14年のテーマは原爆だった。伝統的な歴史学者は原爆は戦争を終結させ、日米双方の多くの命を救ったと主張する。一方、歴史修正主義者は日本は既に負けたも同然で、原爆投下はソ連を威嚇するためだったと言う。(主催側である)われわれは当初、両陣営を交えた議論を想定していたが、会議の議長はこの議論をするといつも怒鳴り合いになるだけだと吐露していた。
それこそが、このテーマの問題点だと思う。どちらか一方の極端な主張だけを採用すると誰も前に進めず、ただ怒鳴り合うだけだ。だから私は、(原爆投下が正しかったかという問いに)関わらないことにしている。