いとうせいこう、ハイチの産科救急センターで小さな命と対面する(8)
無事に生まれたばかりの三つ子(少し小さめ)が眠る(スマホ撮影)
<「国境なき医師団」の取材で、ハイチを訪れることになった いとうせいこう さん。取材を始めると、そこがいかに修羅場かということ、そして、医療は医療スタッフのみならず、様々なスタッフによって成り立っていることを知る。そして、「産科救急センター」を取材する>
これまでの記事:「いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く、前回はこちら」
産科救急
ポルトー・プランスの中心部にあるCRUO(産科救急センター)に俺たちはいて、やがて明るく活発な病院長のハイチ人女性ロドニー・セナ・デルヴァを紹介してもらい、全体を見学させてもらうことになった。
玄関の受付にはトリアージを行う場所があり、すぐ近くに緊急患者を診察する部屋があって、7つのベッドが用意されていた。薄暗い廊下を隔てた反対側は分娩室で、つまり"着いたらすぐに産める"状態になっていた。それをロドニーさんはにこにこ説明してくれた。
廊下をそのまま行くと両側に部屋が続き、それぞれにベッドがあった。どこからか赤ん坊の声が聞こえ、扉の奥をのぞき込むと生まれたてらしい乳児がタオルに包まれ、母親に抱かれているのが見えた。
ほほ笑ましい気分になっていると、後ろから紘子さんが小さな声で情報を補った。
「ここで乗り切れない場合は、あっちに移します」
指さす先にはプラスチックの保育器が廊下のひんやりした日陰にあった。生まれてきても危険領域にある場合、子供はそこに入れられて別の部屋に入るのだった。
お腹の中で子供が死んでいると言われたの
病院には他に妊産婦のためのメンタルケアの部屋が用意されていたし、血液検査室もあった。至れり尽くせりの状況を、スタッフたちは自力で作り出していた。
最も多いのは妊婦たちが控える部屋で、幾つかあったと思う。そのひとつからじきに産気づく声がして、オーオーと地の底を這うようなうめきになった。慣れずにおののいているのは俺一人で、各スタッフも入院女性たちも何も気にしていない様子だった。子供が産まれてくる前の苦しみを、誰もが当たり前のこととして共有しているようなのだ。
廊下の先に別称「カンガルー室」と呼ばれる新生児たちの部屋があった。中に入ると、20ベッドとずいぶん広かった。6つくらいのベッドにすでにお母さんたちが寝たり座ったりしていて、一様にライトグリーンのチューブトップを上半身に着ていた。その部屋では、成育状態のよくない乳児のお腹側をカンガルーのように肌と肌をつけて母親の胸に抱えるのだった。これはコロンビアで長く行われている「発達ケア」だそうで、未熟児への効果が大きいので取り入れているのだそうだった。
実際、どの子供も小さかった。動きも気のせいか鈍く、中には表情の読み取れない子供もいた。それをある母は胸に入れて仰向けになり、ある母はいったん取り出してベッドに寝かせていた。静かな部屋だった。
中の一人、ダディ・セインビルさんがベッドに腰かけ、ふくよかな胸の下に乳児を抱いて、注射器から針の部分を取ったものをくわえさせて飲み物を与えていた(哺乳器からミルクを吸う力がないからだ)。生まれて数週間の女の赤ちゃんにはサラ・ウリカ・タイルスという名が付いていた。
聞いてみると、妊娠したダディをそこに連れて来たのは、彼女の姉だそうだった。
何かトラブルがあったらMSFに助けてもらえ、というのがそもそも家族の助言だったという。だからダディはそこに来た。
けれど帝王切開で産まれてきたサラ・ウリカは心臓が悪く、なかなか退院出来ないのだという。早く自分の村に帰りたいのだけれど、とダディは言った。
心臓に障害のある子供を抱えて、これからの生活への不安も大きいだろうと思った。目をつぶってミルクを口にふくまされているサラ・ウリカちゃんを、俺はじっと見た。
するとダディが言い出した。
「最初はお腹の中で子供が死んでいると言われました」
どうやら産まれる直前まで、別の病院で看てもらっていたらしいのだった。彼女はそこからこの産科救急センターに移って来たのだ。ダディは赤ん坊の世話をしながら続けた。
「だけど、あたしにはわかった。この子は死んでなんかいない。だから産むと言った。お医者さんはあたしが狂っていると言いました。そこでこの病院に駆け込んだんです。おかげであたしはこの子を産めました」
そして最後の言葉を、ダディは注射器の先を天に向けて言った。
「MSFのスタッフに感謝します」
彼女は不安より喜びをあらわしたのだった。