自由主義的な世界秩序の終焉
私自身の主義を問われれば、国際政治経済学者のロバート・ギルピンと同じ「現実的な自由主義者」になるだろう。私は自由な社会の美徳を評価し、そこに生きられることに感謝し、もし自由な仕組みや価値観がより広範に受容されれば、世界はより良い場所になると考えている。だが、現実はそうはならなかった。なぜそうならなかったのか、その理由が重要だ。
第一の問題は、自由主義を擁護する側がその利点を誇張しすぎたことだ。我々は次のように言われてきた。もし独裁者が次々に失脚し、より多くの国家が民主選挙を実施し、言論の自由を守り、法による支配を実行し、競争市場を導入し、EUやNATO(北大西洋条約機構)に加盟すれば、広大な「平和地帯」が生まれ、繁栄の輪が広がって、政治的な対立は自由主義的な秩序の枠組みの中で容易に解決に向かうだろうと。
自由主義で損をした人々の反乱
だが現実にはそうは行かなかった。自由主義の社会で不利益を蒙る人々も出てきたのだ。ある程度の反動は避けられなかった。自由主義世界のエリートたちは、統一通貨ユーロの導入やイラクへの侵攻、アフガニスタン再建、2008年の世界金融危機など、数々の致命的失敗を犯してきた。そうした過ちは、戦後の世界秩序の正当性を傷つけ、自由を好まない勢力の台頭を許し、社会の特定の層に属する人々を排外主義に追いやる結果を招いた。
自由主義的な世界秩序を広げる動きは、それによって権力を失うなど直接の脅威にさらされる指導者や組織の反発を招いた。例えば、イランとシリアがアメリカのイラク戦争を妨害したのは驚くにあたらない。イラクの独裁政権が倒れれば、次はイランとシリアの独裁政権の番がくるからだ。中国やロシアの指導者が「自由主義」の価値観を広げようとする欧米の動きを脅威と感じ、あらゆる手を使って妨害しようとするのも当然のなりゆきだ。
自由主義の擁護者たちはまた、民主主義という制度を作るだけでは自由な社会は実現できないことを忘れていた。民主主義の基礎を成す価値観、とりわけ「寛容」に対する強い信念が必要になることを見落とした。イラクやアフガニスタンの例で明らかなように、単に憲法を制定し、政党を結成し、「自由で公正な」選挙を実施するだけでは真の自由主義的な秩序は生まれない。社会を構成する個々人や集団も自由主義の規範を受け入れて初めて実現する。それは一夜にして生まれるものではないし、外から強制して出来るものでもない。