欧州ホームグロウンテロの背景(4) 現代イスラム政治研究者ジル・ケペルに聞く
ケペルはかつて、欧州と中東が「歴史と文化遺産を共有している」として、共通の文明圏を築くべきだと提言してきた。ただ、もはやそのような楽観的な立場は取りえないという。
「ある時期までそのように信じてきました。しかし、『アラブの春』以降、状況は恐ろしいことになりました。シリア、イラク、イエメンで国家の機能が消滅し、激動期に入っています。クルド人との対立を深めるトルコの将来も予断を許さない。以前の提言は通用しません」
ならばこれからどうしたらいいのか。
「第一、第二世代が失敗したように、第三世代も長期的には成果を生まないでしょう。ただ、その後の世代交代がどこまで続くか。すべては、イスラム教徒自身が過激派の思想を拒否することから始まります。その営みなくして、イスラム過激派の活動が消え去ることはありません」
パリ同時多発テロの後で
このインタビューでケペルと会ったのは二〇一五年九月のことである。その二カ月後の十一月十三日、パリで一三〇人の犠牲者を出す同時多発テロが起きた。『シャルリー・エブド』事件で傷ついたフランスにとって、同じ年に受ける二度目の衝撃だった。
この日夜、独仏のサッカー親善試合が開かれていたパリ北郊サンドニのスタジアム周辺で三人が自爆し、市民一人が巻き添えになって死亡した。ほぼ同じ頃、市内東部の三カ所の飲食店が銃を持った男らに襲撃され、計三九人が死亡、別のカフェで一人が自爆した。また、ロックコンサートが開かれていたパリ中心部のホール「バタクラン」には三人が押し入って観客らを狙撃し、九〇人もの犠牲者が出た。容疑者の多くは、ベルギーやフランスの移民家庭の出身だった。
その五日後、首謀者と目されたモロッコ系ベルギー人アブデルアミド・アバウドは、潜伏していたサンドニのアパルトマンで警官隊と銃撃戦を繰り広げた末に死亡した。
【参考記事】ドキュメント:週末のパリを襲った、無差別テロ同時攻撃
【参考記事】ベルギー「テロリストの温床」の街
ケペルはこのテロの後、フランス各紙のインタビューに応じている。それによると、このテロも基本的にスーリーの理論に沿う形で実行されたと、彼は考えているようだ。ただ、標的が明確に定まっていた『シャルリー』の場合とは異なり、無差別の大衆を狙った側面が強くなった、とも指摘している。
『リベラシオン』紙のインタビューで、彼はテロリストの意図をこう分析した。
「彼らが狙ったのは、嫌イスラム傾向の強い右翼を刺激し、イスラム教徒に対するリンチを誘発させることだった。スカーフをまとったイスラム教徒の女性が襲われるだろう。イスラム教の戒律に沿ったハラールを商う店が焼き打ちに遭うだろう。本来『イスラム国』と何の関係もないイスラム教徒も、このような『嫌イスラム』意識に直面して、ジハードに合流するに違いない――。彼らはそう考えた」