中国、「私の名前」は「党」
中国、「私の名前は?」 ROMAOSLO-iStock.
習近平総書記が「媒体姓党(メディアの名前は党)」と言ってから、心ある抗議が相次いでいる。改革開放の初期、「中国の姓は社会主義か」「それとも資本主義か」という大論争があった。中国はいま曲がり角に来ている。
中国の分岐点となった「姓社姓資」大論争
1970年代末から改革開放が始まり、「金儲けをしてもいい」という鄧小平の号令がかかったが、中国人民はすぐには動かなかった。それまで金儲けをした者は「走資派(ゾウズーパイ)」(資本主義に走る者)として糾弾され投獄されてきたからだ。それに毛沢東は1956年に「百花斉放、百家争鳴」というスローガンの下、「何でも言っていいですよ」と人民に呼びかけ、知識人が喜んで言いたいことを言った結果、翌年には「右派」というレッテルを貼られて何百万におよぶ知識人が投獄されてしまった経験がある。
1966年から76年までは、あの悪名高き文化大革命があった。中国政府でさえ、2000万人以上の犠牲者を出したと認めたほどだ。
鄧小平がいくら「白猫も黒猫も、ネズミを捕る猫が良い猫だ」という言葉を用いて「金儲けに走れ」と呼びかけても、人民は「もう、騙されないぞ」と、二の足を踏んでいた。
このころに起きたのが「姓社姓資」大論争である。
「中国は社会主義の国家なのか?」
それとも、
「金儲けをして、資本主義の国家になろうというのか?」
という議論だ。
前者を「姓社」すなわち「中国という国家の名前は社会主義」といい、後者を「姓資」すなわち「中国という国家の名前は資本主義」と称して、「姓社姓資」論争が全土で巻き起こり、改革開放は思うように進まなかった。
それでいながら、「ネズミを捕る良い猫たち」が、すでに特権を活かして金儲けをはじめ、「姓社」の中枢にいるはずの中共幹部たちが「ぼろ儲け」をしながら腐敗に手を染めはじめていた。
天安門事件で打ち切りに――「向銭看(シャンチェンカン)」(銭に向かって進め!)
こんな紆余曲折をしながら起きたのが天安門事件だった。1989年6月4日、民主を叫び、党幹部の腐敗に抗議した若者たちの声を、鄧小平は武力で鎮圧してしまう。
以来、中国は西側諸国から経済封鎖を受けるが、「姓社姓資」論争は、一層のこと激しくなり、成長しかけた中国の経済を冷え込ませた。