官僚たたきは正しかったのか
ところが、一九九〇年代に入ってFDAの権限を弱める改革が行なわれて以降、FDAが守ってきた公益には揺らぎが見られるようになる。この改革は、製薬業者の立場に近く、政府規制ではなく自由競争を重視する共和党によってなされた。FDAがより代理人的になったことは、果たしてよかったことなのであろうか。
カーペンターは明示的には述べていないが、本書は、官僚制の別の側面を描き出すことに成功している。それは、「信託者」としての側面である。先ほど述べた代理人としての官僚制は、本人たる政治家によって設定された目的を実現しなければならない。そのためにはいかなる政策を使って実現するか、というレベルの裁量はあるかもしれない。しかし、ここで示されている信託者としての官僚制は、目的設定自体も主体的に行なう。確かに、国民を薬害から守るという意味での大きな目標は国民から与えられたものであるが、その目標を達成するためのより具体的な目的設定については大幅に委託されている。そして、FDAは、委任の連鎖から切り離され、直接的に政治家の監督を受けないからこそ、究極の目標である公益実現に貢献できるのである。
しかし、連邦議会の定める法律によって設置され、連邦議会の意思次第では組織も目的も変更されうるFDAが高い自律性を保ち得たのは何であったのか。それをカーペンターは、組織に対する評判の高さであるという。患者と消費者の安全を守り、科学的な正確さと的確さに依拠して政策を形成、実施しているという、一般市民からの評判が、製薬業者や医療従事者への指導力、新薬への拒否権、さらには現代医学の基準やルールをも規定する権力を作り上げてきた。逆に言えば、評判の衰えがFDAへの信頼を揺るがせ、政治的自律性を損なうことにつながる。
本書が提示した信託者としての条件が、カーペンターがいう評判であるかどうかについては、議論の余地がある。カーペンター自身、前著では評判だけでなく課長級の中間管理職が持つ市民社会とのネットワークが重要であるとしている(注2)。他方ヒューバーは地方組織における裁量のあり方が重要であるとする(注3)。裁量を地方組織が持てば、政治家が地方に働きかけて、例えば労働者の労働条件の保護基準の統一など、政策本来の持つ性格をねじ曲げてしまうからである。フッドはそもそも官僚制が信託者なのか代理人なのかは、ヨーロッパ大陸諸国や日本と、英米・新興国とで根本的に異なるとしている(注4)。まだまだこれから研究がなされるべき領域であり、結論が出ているわけではない。