「最凶テロの教祖」はこうして作られた
ソフトな語り口に優美な物腰──支持者を心酔させるカリスマ性の源は、テロリストとしての力量だけではなかった
揺るぎない求心力 ビンラディンのカリスマ性は今もイスラム原理主義に傾倒する人々を引きつけている(パキスタン南西部クエッタ、2011年5月6日) Naseer Ahmed-Reuters
ウサマ・ビンラディンは、AK47自動小銃を手にポーズを取るのが好きだ──もっとも、銃の扱いにはあまり慣れていないように見える。
長身で細身のやさ男。ソフトな語り口に、女性的とさえいえる柔らかな身のこなし。彼の圧倒的なカリスマ性の源は、テロリストとしての力量だけでなく、その優美な物腰にもある。
彼は01年、息子モハメドの結婚式で詩を披露した。米駆逐艦コールへの自爆テロ事件の4カ月後のことだ。
「異教徒のしかばねのかけらが、ちりのように舞っていた/目にした者は歓喜し/そして心は喜びで満たされただろう」
「殉教者」にささげられたこの詩は、新兵勧誘用のビデオに収められ、中東はもちろんパキスタンなどでも売られている。
「わずかな装備と強い信仰心があれば、現代最強の軍事大国さえ打ち負かすことができる」と、全編100分のこのビデオで彼は語りかける。「アメリカは見かけよりずっと弱い」
裕福な家を出て兵士と共同生活
今や自分が国際テロのシンボルとなったことに、ビンラディンは満足しているにちがいない。テロリストとしての手際もさることながら、彼の最大の才能は、自らの伝説を築いて磨き上げ、その力で人々を駆り立てる力だ。
冷酷かつ大胆であればあるほど、彼のオーラは強まる。そして98年の米大使館爆破事件の後のように、アメリカのミサイルをかわして逃げ延びるほど、自分のカリスマ性が高まることも彼は知っている。
ビンラディンはサウジアラビアで育った。一族にはアメリカ在住者もいるが、50人以上いる兄弟の17番目にあたるビンラディンはジッダの大学で経営学を学び、そこでイスラム原理主義に傾倒していった。
79年のソ連のアフガニスタン侵攻で、ビンラディンは人生の目標を見つけた。最初は資金援助や建設機械の提供などを行っていたが、そのうち直接戦闘に参加するようになる。
本誌の知るかぎり、ビンラディンはアメリカの情報当局とは直接かかわりをもたなかった。だがCIA(米中央情報局)が当時、対ソ「聖戦」に資金を提供するサウジの大富豪の出現を歓迎したのは確かだ。
アフガニスタンで、ビンラディンは自身の伝説を築き始めた。すぐそばにソ連軍の迫撃弾が落ちたが不発だったといった話を、彼は好んでしたらしい。
仲間の兵士は、ビンラディンの戦場での振る舞いに強い印象を受けた。「彼はカネだけでなく、自分自身をあの戦いにささげていた」と、ビンラディンを支持するあるパレスチナ人は言う。「宮殿のような家を出て、農民や兵士とともに料理をし、同じ飯を食い、一緒に塹壕を掘った。それが彼のやり方だ」