最新記事

朝鮮半島

金正日後の北朝鮮

建国60周年式典を欠席したことで、金総書記の健康不安説が再燃。Xデー後の体制崩壊、核兵器流出の可能性は?

2009年5月25日(月)19時10分
横田孝(本誌記者)、李炳宗(ソウル支局)、クリスチャン・カリル(東京支局長)、マーク・ホーゼンボール(ワシントン支局)

 北朝鮮は9月9日、建国60周年を祝った。首都平壌で開かれた記念式典には、世界の国々の----厳密にいえば、この国と外交関係を維持している一部の国の----高官が顔をそろえた。

 しかしそこには、ある人物の姿がなかった。北朝鮮の最高実力者、金正日(キム・ジョンイル)総書記である。この式典欠席をきっかけに、くすぶっていた金正日の健康不安説に一気に火がついた。金が最後に公の場に登場したのは、1カ月以上前。脳卒中を起こし、身体に一部麻痺が残っているという噂もある。

 事実だとすれば、ぞっとする話だ。北朝鮮の人々が金体制の下で飢餓、経済の混乱、圧政に苦しんできたことは事実だが、いま彼が突然いなくなれば、もっとひどい状況になることも考えられる。

 北朝鮮の核兵器や生物・化学兵器をいったい誰が管理するのかという不安は大きい。それに、権力の空白が生まれれば、相互に不信をいだく軍部や政府幹部の間で権力闘争が始まる可能性も排除できない。

 「後継者争いは、この国にとって未経験のこと。そういう事態になれば、指導部内の緊張が尋常でなく高まるだろう」と、米シンクタンク戦略国際問題研究所太平洋フォーラムのアジア専門家ブラッド・グロッサーマンは指摘する。

 金正日の重病説について話を複雑にしているのは、金がしばしば徹底した情報統制を武器に、世界と心理的駆け引きをしてきたことだ。これまでも金は、(外の世界から見ると)特段の理由なしに、長期間姿を隠したことがたびたびある。

 そのような行動の一つのねらいは重要イベントに国際社会の注目を集めることにあるのだろうと、一部の専門家は指摘する。98年には、金正日が姿を消した直後にミサイルの発射実験を実施。03年には、北朝鮮が核拡散防止条約からの脱退を表明した直後に金が公の場に出なくなったが、その50日ほど後に金が姿を見せたときには、北朝鮮は核問題に関する交渉のテーブルに着く意向を明らかにして世界を驚かせた。

 06年7月には、弾道ミサイル発射実験を行う1日前に姿を消し、そのまま1カ月以上、雲隠れしたままだった。同年の10月に姿を消したときは、北朝鮮にとって初めての核実験が実施された。金正日が正式に最高指導者の地位に就いた97年以降、20日間以上にわたり公の場に姿を見せなかったケースは、少なくとも9回ある。

中国政府は知っていた?

 こうしたなかには、単に恐怖が原因で姿を隠したケースもあったのかもしれない。常に暗殺を警戒しなければならないのは、独裁者の宿命だ。情報機関筋によれば、金は狙われることを恐れて飛行機に乗らないという。金の居場所は極秘扱い。その動静は、基本的に事後にしか報じられない。

 彼がとくに神経質になっているのは、アメリカに命を狙われることだ。これまで長期間にわたって姿を消した時期は、アメリカとの関係が緊迫した時期と一致する場合が多い。たとえば03年に公の場に現れなくなった時期は、アメリカがサダム・フセインのイラクに侵攻した時期と重なる。

 だが、今回は様子が違う。式典欠席の翌日、韓国の情報機関関係者は、8月半ばごろに金が脳卒中を起こしたらしいとの見方を示したが、病状は深刻ではないと強調。韓国政府筋によれば、金は「自分で歯を磨ける」状態だという。

 一方、中国筋によれば、金は式典に出席する予定でいたが、健康上の問題により土壇場で断念したという。中国が地位の高い人物を9日の記念式典に派遣していないことから判断すると、中国政府が金の「異変」を事前に知っていた可能性もある(中国政府は、金の健康問題について何も知らないとしている)。

 独裁者の健康について確かな情報がない現状では、アメリカや近隣諸国としては、北朝鮮で後継者争いが持ち上がらないことを願う以外にない。元愛煙家で、酒と美食に目がなかった66歳の「親愛なる指導者」は、まだ特定の後継者を指名していない。

 金正日は74年、父の金日成(キム・イルソン)国家主席の死より20年前に後継者に指名され、それから工作活動などさまざまな分野において権限が委譲されていったとされる。金正日は、晩年の父のように傀儡と化すことを恐れているとも言われる。

 北にとって有利な形での対米関係正常化など、自ら歴史的な偉業を達成するまで権力の座にとどまりたいという思いもあるのかもしれない。日本の帝国主義者と戦ったとされ、北朝鮮を建国したことで国民から敬愛されている父親と比べ、経済が悪化した90年代に権力を握った金正日は自分も歴史に残る偉人だと証明できていない。

将軍様より怖い軍部

 金正日が3人の息子の誰かに後を継がせたいのかどうかすら、はっきりしない。3人にはそれぞれ不適格な点があり、金が集団指導体制を考えているとの説もある。

 37歳の長男の金正男(キム・ジョンナム)は役立たずだとみられている。01年5月に成田国際空港で偽造旅券所持で拘束されたときには東京ディズニーランドに行きたかったと弁明し、世界の笑いものになった。
 
 これで後継者レースからはずれたと考える人は多いが、『北朝鮮「偉大な愛」の幻』(邦訳・青灯社)の著書があるブラッドレー・マーティンは、それだけでは「失格とはいえない」と言う。金正日自身、若いころに偽名で東欧などを旅行していたらしい。

 次男の正哲(ジョンチョル)と三男の正雲(ジョンウン)は、共にまだ20代で若すぎるとみられている。スイスで教育を受けた正哲の場合、古参の軍幹部の信任を得られない可能性がある。北朝鮮の序列ナンバー2、金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長や金正日の義理の弟、張成沢(チャン・ソンテク)の名も取りざたされるが、北朝鮮情勢に詳しい元米政府当局者によると可能性は低い。

 「もう一つ重要なのは、金正日が親族と熾烈な後継者争いをして今の地位をつかんだことだ」と、マーティンは指摘する。「おそらく(息子たちには)兄弟の背中を刺すような覚悟はなさそうだ。金正日は自身の経験から、北朝鮮で政治の頂点に立つためには冷酷になる必要があることを身をもって知っている」

 3兄弟のうち1人が後を継ぐかもしれないが、短命政権に終わる可能性が高いと観測筋はみる。権力基盤が弱いため、軍部の言いなりになることも考えられる。となると、むしろ朝鮮人民軍の上層部が権力を握るというシナリオが優勢だ。軍がすべてに優先する北朝鮮の「先軍政治」の原則を専門家は指摘している。

 「軍部や治安機関は明らかに、金正日政権以後も主権と領土を維持することに利害を見いだしている」と、旧ソ連の駐北朝鮮外交官を務めた、アジア太平洋安全保障研究センターのアレクサンドル・マンスーロフ教授は言う。「統一などもってのほか。生き残りの問題だ。万一、南北朝鮮が統一されたら数万人が権力を失う」

 強硬派の軍幹部らが権力を握れば、外敵を寄せつけないよう軍事体制の強化を行うことは想像に難くない。軍幹部らが金正日より危険な脅威となる可能性はある。

 「将軍というものは戦争をするため訓練されている」と、90年代に米国務省北朝鮮分析官として北朝鮮軍部と交渉した経験がある国際教養大学(秋田)のケネス・キノネス教授は言う。「北朝鮮には傲慢で自信過剰、非常に愛国的な軍幹部が大勢おり、彼らは欲求不満をかかえている----戦争をしたことがないからだ」

 そのうえ権力闘争が始まろうものなら、状況はさらに悪化しかねない。マンスーロフによると、反体制派などを摘発する国家安全保衛部と北朝鮮人民軍は絶えず緊張関係にあり、体制内の主導権争いが繰り広げられているという。

 「内部の主導権争いを解決する一つの方法はアメリカとの危機をつくり出すことだ」と、キノネスは言う。「そうなれば核に関する合意も破棄されてしまうだろう。国内をまとめるために外敵に注意を向けようとするからだ」

 北朝鮮内に軍に対抗できる存在はないが、軍幹部同士の争いが激化して情勢が不安定化するのではないかということを、韓国は恐れている。「(北の)体制が完全に崩壊する可能性は小さくない」と、保守系有力紙の朝鮮日報は書いている。「その場合、核兵器と生物・化学兵器を擁する117万の北朝鮮軍がどう動くか予測するのはむずかしい」

 ただし韓国が本当に恐れているのは、北朝鮮の軍ではない。極度の貧困に苦しんでいる北朝鮮の一般市民だ。ベルリンの壁が崩壊したときのように「38度線」が突然消えれば、北の圧倒的な貧困の重圧で、南の経済はまちがいなく押しつぶされてしまうだろう。

ブッシュ政権は中国頼み

 それなのに、米政府と韓国政府は、北朝鮮の体制崩壊にそなえた現実的な緊急対応策を用意していない。「この問題は完全にタブー扱いされてきた」と、国民大学(ソウル)の北朝鮮専門家アンドレイ・ランコフ教授は言う。「主要関係国はまったく準備ができていない。韓国はこの問題に触れたがらないし、その点はアメリカも同じだ」

 緊急対応計画に最も近いのは、米韓共同の「概念計画5029」だ。北朝鮮の体制が崩壊した場合の難民問題や大量破壊兵器問題などに対する共同対応の概略的指針をまとめたものである。

 アメリカは3年前、この計画を具体的な「作戦計画」に格上げしようとしたが、このときは韓国が拒否。韓国政府が「作戦計画5029」の整備をめざす方針を固めたのは、最近になってからだ。

 それでもジョージ・W・ブッシュ政権は、北朝鮮の体制崩壊について、ほとんど心配していないようにみえる。もし問題が発生すれば、中国と韓国がしかるべき措置を取るはずだと、あてにしているのだ。

 確かに、中国も韓国も北朝鮮が崩壊して大量の難民が流れ込んでくる事態は望んでいない。中国は04年、難民流入を防ぐために北朝鮮との国境付近に10万人の部隊を展開させたことがある。いざとなれば中国軍が南進して平壌に乗り込み、秩序を回復することも可能なはずだ。

 実際、中国はすでに北朝鮮をがっちり押さえている。北朝鮮は日常の必需品の80%以上を中国からの輸入に頼っているし、北朝鮮の天然資源開発のかなりの割合を中国企業が支配している。「韓国とアメリカが手をこまねいている間に、中国は北の有事にそなえて精力的に準備を進めている」と、統一研究院(ソウル)の朴英鎬(パク・ヨンホ)研究員は言う。

 万一、中国が北朝鮮の秩序回復に失敗したとしても、あまり北の核を恐れる必要はないと、アメリカの安全保障関係者は考えているようだ。専門家によれば、北朝鮮は地下核実験こそ成功させたが、核兵器を実戦で使用できる状態にあると判断すべき証拠はない。

 むしろ、さまざまな証拠から判断するかぎり、その段階にはまだ達していないとみることができる。要するに、どんなに北朝鮮が混乱に陥っても、どこかに核爆弾を落としたり、核兵器を売り飛ばしたりする可能性は低いのだ。

 おそらく、北朝鮮の貯蔵しているプルトニウムが流出するおそれもない。専門家によれば、アメリカの監視体制がしっかりしているので、北朝鮮から核物質が運び出されれば察知できるという。

 金日成と金正日の親子が支配して60年。北朝鮮は外国の援助に頼りきっているのが実情だ。金体制がいずれ崩壊することは避けられないだろう。

 北朝鮮の体制が崩壊しても、一部の人が恐れているほど悲惨なことは起きないかもしれない。だが、米海軍大学の北朝鮮専門家ジョナサン・ポラック教授が言うように、「かなりの波乱が待ち受けていることは覚悟しておくべき」だ。

[2008年9月24日号掲載]

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

輸出規制厳格化でも世界の技術協力続く=エヌビディア

ビジネス

ラトニック氏の金融会社がテザーと協議、新たな融資事

ビジネス

米、対中半導体規制強化へ 最大200社制限リストに

ワールド

ヒズボラ、テルアビブ近郊にロケット弾 ベイルート大
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:超解説 トランプ2.0
特集:超解説 トランプ2.0
2024年11月26日号(11/19発売)

電光石火の閣僚人事で世界に先制パンチ。第2次トランプ政権で次に起きること

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 2
    「ダイエット成功」3つの戦略...「食事内容」ではなく「タイミング」である可能性【最新研究】
  • 3
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたまま飛行機が離陸体勢に...窓から女性が撮影した映像にネット震撼
  • 4
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 5
    寿命が5年延びる「運動量」に研究者が言及...40歳か…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    クルスク州のロシア軍司令部をウクライナがミサイル…
  • 9
    元幼稚園教諭の女性兵士がロシアの巡航ミサイル「Kh-…
  • 10
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」…
  • 1
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 2
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋トレに変える7つのヒント
  • 3
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 4
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 5
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 6
    日本人はホームレスをどう見ているのか? ルポに対す…
  • 7
    北朝鮮は、ロシアに派遣した兵士の「生還を望んでい…
  • 8
    Netflix「打ち切り病」の闇...効率が命、ファンの熱…
  • 9
    「このまま全員死ぬんだ...」巨大な部品が外されたま…
  • 10
    2人きりの部屋で「あそこに怖い男の子がいる」と訴え…
  • 1
    朝食で老化が早まる可能性...研究者が「超加工食品」に警鐘【最新研究】
  • 2
    北朝鮮兵が「下品なビデオ」を見ている...ロシア軍参加で「ネットの自由」を得た兵士が見ていた動画とは?
  • 3
    寿命が延びる、3つのシンプルな習慣
  • 4
    「1年後の体力がまったく変わる」日常生活を自然に筋…
  • 5
    外来種の巨大ビルマニシキヘビが、シカを捕食...大き…
  • 6
    朝鮮戦争に従軍のアメリカ人が写した「75年前の韓国…
  • 7
    自分は「純粋な韓国人」と信じていた女性が、DNA検査…
  • 8
    北朝鮮兵が味方のロシア兵に発砲して2人死亡!? ウク…
  • 9
    「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り…
  • 10
    足跡が見つかることさえ珍しい...「超希少」だが「大…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中